山口謠司『日本語を作った男:上田万年とその時代』

 今の私たちが使っている日本語の書き言葉は、明治時代後半の言文一致運動にその一つの源流がある。これは、「自然に変化してこうなったものではなく、「作られた」日本語である」。タイトルにある上田万年(1867(慶応3年)ー1937(昭和12年))は、その時代に東大の博語学(いまでいう言語学)の教授として、言文一致をしようとした人だ。結局これは挫折して、「現代かなづかい」の告示は戦後まで待たなくていけないのだが。この本は、上田万年の時代の歴史的・文化的なことについてや、同時代の人物たちの活動を群像的に書いていっている。
 知らなかったことがいっぱいあって、しかもそれが大きな全体像を構成していて、とてもおもしろかった。全体像の話をするのはむずかしいだろうけど、面白かった話をいくつか紹介してみたい。

 

 

 上田万年は慶応3(1867)年に生まれる。大政奉還が行われて明治新政府が成立した年だ。ちなみにこの年には、夏目漱石正岡子規幸田露伴南方熊楠なども生まれている。
 明治政府は、欧州列強に追いつこうと、中央集権的な近代国家を確立させようとしていたし、江戸以前の文化をなかったものとしたかった。大学に入るためには英語を習得していなければならず、帝国大学での授業はすべて英語だったという。当時博士になるにはどの専門分野でも留学が必須で、留学によって外国の知識を国に持ち帰るという流れだった。帝国大学の学生というのは、日本の中でもほんの一握りのエリートだったのだ。また、新島襄(1843ー1890)や内村鑑三(1861ー1930)は、「日本語を話すことはできても、ほとんど日本語で書かれたものを読解することができず、英訳本か、本を読んでもらうことでようやく耳から理解していた」と触れられていて驚く。このような時代のなかで、例えば森有礼は英語を日本の公用語にすることを主張するし、そこまで急進的でなくても、日本語をローマ字で書こうという論(西周)や、漢字を廃止しよう(前島密)などの議論が明治6年(1873年)頃から主張されてくる。

 日本語をどのように文章にするのか、という問題には、様々な論点がある。漢字や仮名、そしてローマ字という表記の問題。そもそも、発音されている音のすべてをかなで表すことができるのか、という表音の問題*1も含まれるだろう。そして、文語文と口語文という表現の問題だ。文語文というのは、例えば漢文や漢文訓読体、もっと私的なものでは候文などである。それぞれ例として引用されているものがあるので見てみよう。

朕深ク世界ノ大勢ト帝国ノ現状トニ鑑ミ非常ノ措置ヲ以テ時局ヲ収拾セムト欲シ茲ニ忠良ナル爾臣民ニ告ク 朕ハ帝国政府ヲシテ米英支蘇四国ニ対シ其ノ共同宣言ヲ受諾スル旨通告セシメタリ

 第二次世界大戦終結までは、公式文書はすべて漢文または漢文訓読体であったという。玉音放送は最もよく知られているところであろう。原文は、漢学者・川田瑞穂によって書かれ、陽明学者・安岡正篤によって添削されたということだ。誰でも使いこなせる文体ではなかった。

今朝は風はげしう候て北に向きたるは窓さえ明けがたきように御座候(ござそうろう)都のうちさえ此(この)ようのさむさなるをまして山おろしいかばかりか父母ともどもお案じ申上御様子(ごようす)承(うけたまわる)るべしと語りあい居(をり)候に

 これは樋口一葉が博文館から依頼されて執筆した『通俗書簡文』(1986)の抜粋ということだ。題名に「通俗」とあるけれど、みんなこういう文体で私信をやりとりしていたということなのだろうか。

 

 このような中で、明治初期には、まず日本語をひらがなだけで、あるいはローマ字だけで書いていこうという、表記における運動が活発になる。物集高見という人物の、『かなのしをり』(1884(M4))という本の文章が引用されているので見てみよう*2

よろづ の くに おほかた この くに の ことば この くに の もじ を もて よろづ の もの を よび ちぢ の こと を しるせり、かの 二十六 の こゑ 二十六 の もじ を もて よろづ の もの を しるせる くに も 五十 の こゑ 五十 の もじ を もて ちぢ の こと を しるせる くに も とも に ひと の くに も もじ を かる こと なし、わが みくに も また 五十 の こゑ 五十 の もじ ありて よろづ の もの を よび ちぢ の こと を しるさば ひと の くに も もじ は かる べく も あらぬ を

漢字かな混じり文が当たり前だと思ってる身からはだいぶ目が泳いでしんどい。
ひらがな分かちや、ローマ字表記という文体からなんとなく土岐哀果(善麿)(1885ー1979)の『NAKIWARAI』(1910)や會津八一(1881-1956)の歌が思い出される。小高賢『近代短歌の鑑賞77』を参照すると、哀果のほうは時代的な動きに応じたものだったようだ*3が、八一のほうはそれとは違うところの理由からくる文体選択だった様子*4だ。

 本書の話に戻って、明治前半までは、覚えるのに時間のかかる漢字を廃し、日本語のひらがな表記や、ローマ字表記へと教育を変えようという議論が主に行われていたとまとめられるだろう。


 いま漢字仮名混じり文を当たり前にしていると、こういった主張に対してそんなむちゃくちゃな、という気持ちにならなくもないけれど、世界でも文字表記の改革は行われている。朝鮮半島では1948年に「ハングル専用に関する法律」が、韓国では1970年に漢字廃止宣言が発表されている。また、トルコでも1928年アラビア文字が全廃されて、ラテン文字が採用されるようになったし、モンゴルでも1941年にモンゴル文字を廃止し、キリル文字によって言文一致の表記が行われるようになったという。私は現代日本語が今のような形で現代日本語となったところに暮らしてきているだけで、そうでないものが当たり前になったところを想像するのは難しいけれど、今ではないしかたの日本語が標準であってもおかしくなかったのか、と思われる。


 さて、東京大学で博語学を学び、ベルリン大学へと留学した上田万年は、1894(明治27)年に帰国する。この年万年は「国語と国家と」という演題で講演を行っている。

日本の如きは、殊に一家族の発達して一人民となり、一人民発達して一国民となり者にて、神皇蕃別(じんのうばんべつ)の名はあるものの、実は今日となりては、凡(すべ)て此等を鎔化(ようか)し去(さり)たるなり。こは実に国家の一大慶事にして、一朝事あるの秋(とき)に当たり、われわれ日本国民が協同の運動をなし得るは主としてその忠君愛国の大和魂と、この一国一般の言語とを有(も)つ、大和民族あるに拠(よ)りてなり。故に予輩(よはい)の義務として、この言語の一致と、人種の一致とをば、帝国の歴史と共に、一歩も其方向よりあやまり退かしめざる様(よう)勉めざるべからう。かく勉めざるものは日本人民を愛する仁者(じんしゃ)にあらず、日本帝国を守る勇者にあらず、まして東洋の未来を談ずるに足る智者にはゆめあらざるなり。

(中略)

故に(中略)偉大の国民は、(中略)情の上より其自国語を愛し、理(ことわり)の上より其保護改良に従事し、而して後此上に確固たる国家教育を敷設(ふせつ)す。こはいうまでもなく、苟(いやしく)も国家教育が、かの博愛教育或いは宗教教育とは事替わり、国家の観念上より其一員たるに愧(は)じざる人物養成を以て目的とする者たる以上は、そは先ず其国の言語、次に其国の歴史、この二をないがしろにして、決して其功を見ること能(あた)わざればなり。


日本人という単一民族の統合として戴かれている日本語、という言語観が示され、帝国主義政策の中での国語政策の必要性が説かれている。この考え方の基本には、比較言語学・比較宗教学の学者であるマックス・ミュラーの影響があるという。さかのぼれば同系統の言語を用いていることが明らかになったインド人とヨーロッパ人とを、ミュラーはあわせて「アーリア人」と呼び、アーリア人種の優位性を強調する思想を説いた。万年の講演や思想も、そのような帝国主義的時代の潮流のもとにあった。


 帝国大学*5教授に就任し、のちに文部省学務局長兼文部相参与官にも就任した万年は、国家のなかで統一的な国語を制定するために奔走していく。彼は、国語を上流階級や専門家だけでなく広く一般のものにするためには、表記としても、表現としても言文一致が必要だと考える。例えば明治30(1897)年1月の講演「国語会議に就きて」に万年の主張がみえる。万年は、方言による発音の違い、長音記号の使用や歴史的仮名遣*6について触れながら、仮名遣いを発音に基づき、国家の中で統一したものとすること(そしてそのための組織として国語会議をもうけること)を主張した。明治33(1900)年、文部省は「読書作文習字を国語の一科にまとめ、仮名字体・字音仮名遣いを定め、尋常小学校に使用すべきかんじを千二百字に制限」し、「仮名遣いの一定として変体仮名を廃止し、字音仮名遣いを改正する(表音式に改め、長音符号を採用する)こと」を決定する。これを受けて、「棒引き字音仮名遣い」*7と呼ばれる新しい表記スタイルの教科書が登場した。

お花は、為吉と云ふ人形を、ふとんの上にねかして、片手で、其のはらをさすって居ます。是は人形が、病気にかかったと云って、かんびょーのまねをして居るのでございます。(中略)
お花「為吉は、昨夜より、腹が大そーいたむと申してないてばかり居ます。」

兄モ、弟モ、一ネンジュー、ヨクベンンキョーイタシマシタ。(中略)父母ハ、二人ノコドモニベンキョーノホービダトイッテウツクシイヱヲ一マイヅツヤリマシタ。
(金港堂『尋常国語読本』1900)

とはいえここで発音と一致しているのは、長音部分についてのみで、「云ふ」であったり、助詞の「を」などについてはそのままになっている。万年や、その弟子である芳賀矢一らは、文部省内に設置された「国語調査委員会」でさらに調査を進め、明治41(1908)年には、発音主義の改訂仮名遣いが施行される予定となっていた。しかしその新仮名遣いは文部省参事官岡田良平や、枢密院や貴族院の反対者、鷗外などによって覆されてしまう。新仮名遣いの制定は、戦後の1946年11月内閣訓令第8号,内閣告示33号「現代かなづかい」まで持ちこされたのだった。


 この本では他にも、徳富蘇峰の『国民の友』や、当時の出版業界の話、森鷗外坪内逍遙高山樗牛と繰り広げた論争、19世紀ヨーロッパ言語学の展開、そしてグリムの法則とそれが日本語でも成立することを示した「P音考」等々、近代史・文学史言語学にわたるいろいろな話が登場する。はじめて聞く話と聞いたことのある話とが渾然としていくのも面白くて、世の中には永遠に勉強することがあるな、という気持ちになる。あちこちを照らされることで、すごく大きなもののその大きさが一瞬垣間見せられるような読み味だった。(その分個々の出来事がどう進行しているのかつぶさについていくのはちょっと難しいかった。)私の知っているような本では、照らせる範囲のものを対象に、それをじーっと見たり、論理や時系列にそって追いかけていくようなものが多かったので、もっとこの手の大きな話をする本も読んでいけたらいいなと思う。


 ところで最近、こんなホームページを見つけた。(見つけたはみつけたものの、ページがたくさんありすぎてそんなに探索はできていない)

文化庁 | 国語施策・日本語教育 | 国語施策情報

この文化庁の国語施策情報には、この本で取り上げられてきた審議会の資料や、本当に新仮名遣いが決定された戦後の国語審議会の議事録もあって、内容も審議会の文体もなんかおもしろい。

*1:例えば、「が」は江戸では鼻濁音的な発音がされるが、東北ではそうではない、など

*2:本の内容紹介と共に引用しているものはみんな孫引きです

*3:第一歌集としての『NAKIWARAI』(明治四十三年)は、ロマンチックな感傷性の上に、覚めた現実認識を示している。またこの歌集は、ヘボン式ローマ字綴りによるもので、長くローマ字運動に携わる善麿の初志が反映されてもいる。(小高賢『近代短歌の鑑賞77』)

*4:八一のひらがな、分かち書きのスタイルは、最初からのものではない。・・・・・・掲載歌のような表記がとられたのは、二十六年の『会津八一全集』からである。その「例言」に八一は、
 いやしくも日本語にて歌を詠まんほどのものが、音声を以て耳より聴取するに最も便利なるべき仮名書きを疎んずるの風あるを見て、解しがたしとするものなり。欧米の詩のいはば仮名書きにあらずや。
と述べ、また「一字一字の間隔を均一にせば、欧亜諸国の文章よりも、遙かに読み下しにく」いので分かち書きの方法を取ったとしている。(小高賢『近代短歌の鑑賞77』)

*5:東京大学のこと。1886ー97までの名称

*6:万年の発言中には「歴史的仮名遣い」という用語は用いられていない。万年の表現を用いるならば、仮字遣には国語仮字遣、字音仮字遣、訳語仮字遣があり、前者二つが歴史的主義、訳語仮字遣のみが音韻的主義による、ということだ。

*7:この表記や、「は」や「を」も発音通りに表記された文章などを見ると、現代の仮名遣いも別に完全に発音通りにやってる訳ではないよなあというのがよく分かる

でも歌でなくてもよかったということ鴨川を来ていつか言ったね

 

でも歌でなくてもよかったということ鴨川を来ていつか言ったね

(でもきみでなくてもよかったということ暮れる川辺でいつか話そう/山中千瀬)

 

              *

 

会わなくても元気だったらいいけどな 水たまり雨粒でいそがしい/永井祐

 

背の高いあなたの日々へ降る雨は(元気ならいい)私にも降る

(どこか遠くでわたしを濡らしていた雨がこの世へ移りこの世を濡らす/大森 静佳)

 

すぐ何かけなしはじめるそのときも愛嬌だけはあるよねきみは

 

「その声は、我が友、李徴氏ではないか?」

とらくんが虎ならわたしは牛だから抱くほかない自尊と羞恥

 

喫茶店行くと言ったね とびきりのムカつく話を披露してこう

むきになっても本気マジでやっても定型詩 ゆうべぴょんすと月をいく夢

書きなぐっても書きなぐっても定型詩 ゆうべ銀河に象あゆむゆめ/加藤治郎

 

おどろいてえっ、あっていうきみの声をかわいいとか思っちゃってごめんね

(左利きには左利きなりの苦労とかあるのになりたがっちゃってごめんね/中澤詩風『かんざし』2号)

おしぼりを投げつけていけ ゆるさないことはいつでもゆるさないこと

 

完熟の黄身をめざして茹でているそれでいいのさ神慮は不審/大隅雄太『京大短歌』22号

沸騰しおよそ十分不審ならそれより先はなれの采配

初めての車のシートを一人でたおす 大人がひとり息をしている/樟鹿織2017.2.9(京大短歌歌会の記録)

車を使うのは大人だと思ってた すぐに(いつから?)大人のじかん

 

わがうたにわれの紋章のいまだあらずたそがれのごとくかなしみきたる/葛原妙子

勝手かもしれないけれど百首くらい作ってよ紋章をかかげて

 

お祭りのつらなる道を昇りきてほんとうのお祭りを見た夜

はしゃぎつつなお柔らかい声色であなたとつづく映画のはなし

 

小籠包か~って笑いがとまらずに食べるはるさめスープ

(幸せになりたい笑っていたいなんていうかな、小籠包だよ/寺山雄介(京大短歌歌会の記録 2017.1.19))

 

進みたい道を見やればもう親がレールを敷いてくれてたらしい/川崎瑞季『京大短歌』22号

好きなだけ門出と帰還をするだろう京都駅から路線図ひろげ

 

小林通天閣のうろんな饒舌が絡む短歌とネットと人と

(万国旗つくりのねむい饒舌がつなぐ戦争いくさと平和と危機と/塚本邦雄

 

アトラクション終えてるような落ちつきの、ふと目をやればよく眠る人

 

椰子を蹴れば匂いがするよこの感じ、こんなのは人生だからだめ/濱田友郎

こんなのが人生だから年金を職場で払う書類をかくよ

一切の濱田をほめて河原町

(一切の望みを捨てて避雷針/濱田友郎「一切の望みを捨てよ」『京大短歌』22号)

 

死のはなし、生きる時間が混じり合い私に歌を詠ませる多く

(死ぬ気持ち生きる気持ちが混じり合い僕らに雪を見させる長く/堂園昌彦『やがて秋茄子へと到る』)

 

柄のない服のあなたのしずけさが気づけば笑みへ移りゆく夜

あなたごときに汚されるわけない夜の月を割るならきっぱり縦に/安田茜

わたしたちを汚すに値する人はいないよ月が見えかくれして

 

結果的にたどった道をそう呼べば運命なんだぜんぶがぜんぶ

(お団子ののったお皿を持ち上げてお祭りなんだぜんぶがぜんぶ/阿波野巧也『羽根と根』4号)

ぼくらはぼくにもうならなくて三月の、ほんのり見える鴨川デルタ

 (ぼくにはぼくがまだ足りなくてターミナル駅に色とりどりの電飾/阿波野巧也『京大短歌』20号)

 

              *

 

鴨川に集ひし日日は移ろへど帰りてをゆかな京大短歌けふたんの辺に

(旗は紅き小林おばやしなして移れども帰りてをゆかな病むものの岡井隆

 

短歌のための時間があった長浜のsingin' in the rain なんどでも

(あなたのためのぼくでいたいよ夕暮れのsingin' in the rain とめどない/阿波野巧也『羽根と根』2号)

 

人はみな馴れぬ齢を生きているユリカモメ飛ぶまるき曇天/永田紅

ユリカモメがいつからいなくなったのか分からないまま春だね、行こう

 

 

ーーーーーーーーー

 

2017.3.8.京大短歌追い出し歌会の詠草

詞書の宛名は削除・下敷きにした歌の出典をカッコに入れて明記しました。元のバージョンはじきにきょうたんHPの歌会の記録にのると思います。

京大短歌という四年間の吟行でした。ありがとうございます。

 

洞田明子の〈私〉

 中野サンプラザに行くときはほとんど、カフェオレのせいでお腹の調子が悪くなっている気がする。2月25日の洞田の批評会に行って、すごく面白かったので、その会の話の部分や私が考えたことの話をします。
 (以下発言と書きつつ誰のと明示しないものはみんな)発言者があいまい(すみません)だけど、『洞田』についてコンセプチュアルだとか、実験的だとかいう話が出ていた。
 私もこれは問題提起や考察が明示されていない実験で、これをいろんな向きで切っていろんな議論ができるのではないかっていう可能性にすごくわくわくした。でも斉藤斎藤さん(や他のパネルさんも?)実験の目的が示されていないことに対して否定的な立場で、その点や、歌集批評会という制度において『洞田』を扱う点やその他についてひっかかってはるようだった。批評会を聞いて反省したことは後述します。

 確かに論文だったら序論の問題提起や考察は大事なので、実際に問題提起→実験→考察、みたいな形式のなかで洞田を考えてみたい。

 実験系の論文の形式にあてはめてみよう!(耳学問だけど) 実験系の論文の形式をいくつか検索して(こういうのを見た)

http://tyamlab.web.fc2.com/tips/writing.html
http://wakate-lab.sho.geo.jp/hp/3-2.shtml

いわゆるIMRAD型というのに従う。以下にやってみたのはひとつの例という感じで、他にもいっぱい問題提起や考察のしかたがあるはず、夢が広がる。


やってみた
ーーーーーーーーーーーーーー
論文タイトル: 歌集『洞田』に基づく短歌の文脈についての考察

要旨(省略)

序論(introduction)

短歌の一首は、場(とは?)によってどのような読まれ方をするのか? 〈私性〉(とは?)はどのように歌の読みを左右するのか?

特に短歌連作や歌集の中での一首の読みと作品全体や作者(とは?)との関係において

特に先行研究(とここでは呼ぼう)には、瀬戸夏子さんの『町』の中での、自作と引用歌を交互にとりまぜた作品*1や、歌集『町』など。特に前者では、引用歌が瀬戸さんの歌の磁場に引き込まれた感じがした。後者については、技術点*2がそろっている(堂園さん)などの発言

方法(methods)

テーマ詠「駅」の募集

集まった歌を落とさず変えず、短歌同名ユニット太朗が編集(詞書は任意に付与)して配列する

洞田明子歌集『洞田』へ

Ⅰ部は詞書きを多用し、性別、来歴、属性の提示、Ⅱ部はトポスをそろえること(??わたしは言われたことが理解できていない)、Ⅲ部は文体的な統一性からの〈私〉像の構築(これら大辻さんせいり)

結果(results)

A. 一首取り出すと/作者名と一緒に見るといい歌なのに、歌集中ではその魅力が削がれている歌がある

B. Ⅰ部は属性が分かるけど、Ⅲ部とかのほうが〈私〉がいそうな感じがする(という発言)

考察(discussion)

A →短歌一首を読むには文脈(とは? 作品を読むときに持ってくる作品以外のもの、とざっくりしよう、背景とも)が重要。連作や〈私〉像はその文脈を作る。

 出てくる事件や出来事があれねっていうのもあるだろうけど、文脈や背景が特に大事なのは、どういう抒情なのか、みたいなのが分かる。加藤克巳や森岡貞香や高瀬一誌のような作風をその人の歌と知らずに読むのは難しい(というかわたしはできる気がしない)。他にも竹山広のフセイン像をたたく少年の歌みたいな感情をどう読み込むか、どのような感情がこもっている(と読める)のか、みたいなのも。

短歌の文脈を作る二つの要素

・作品の範囲
基本/最小単位としての一首
歌たちの表題と配列
連作や歌集、ある創作者が発表したすべての歌(全歌集)
ある創作者の歌と散文の時系列的配列を含むすべての集合(全集とか?)

・作者の範囲
作品の発表された時代
作品の作り手の実人生
属性、経験、心情


 この二つの文脈的要素(独立ではない)が短歌の私性で、それをどのように補給して読むのかが私性の問題系(と定義すると議論しやすいと思うんだけどどうかなあ)。

B→私性というと、最近は後者の方が取沙汰されてきたけど前者(これを私性に入れるかどうかの議論はあると思うけど)がけっこう大事なのでは?

 すると、一首単独で素晴らしい歌ってあるのか?あったとしたらそれは、文脈が読者の手持ちのものですぐおっけーだった場合??

 作者の実人生や、アルターエゴみたいなことをしない場合でも、私性(という言葉を使わないなら作品の文脈や背景)はすっごく大事なのでは?

 エッセイと比べたら作品の修辞とか独立性があるのに、小説と比べたら作者まで作品に必要な文脈になってしまうのが短歌

 なぜか。佐佐木幸綱やカミハルさんの言うように短歌がうただったからというだけで説明できるのか(その議論、きれいに整理される感じがして好きではあるけど)。歴史的背景とだけ言ってしまっていいのか。連歌・俳句との比較……?
 個々人がある作品に対してどのように作者の文脈の範囲を考えるのかという問題。個人の考えと共同体の考えとはどういうふうに? 批評や歌壇の役割はここにあるのだろうか? なんか脱線してきた……

結論

 短歌一首を読むに当たっては、連作や作者の情報(それは実人生でなくても作風とかその作者のやろうとしてることとか)が重要になる。

 一般に〈私〉像と言われているものは、作者の性別・年齢・職業なんてものではなく、いわゆる文体とかなのではないか

残された課題
先行研究の検討不足、問題の絞りが甘い、結果と考察にちょっと飛躍がある(わたしが勝手に急ごしらえの問題提起と考察をつけたしてみたんだから当然である)

ーーーーーーーーーーーーーーーー


 こういう感じの議論がめっちゃ作れそうで、洞田の実験性!!みたいなことにわたしはテンションをあげていたけれど、批評会を聞いていろいろ誠実でなかったなあと反省しました。まず第一に、これまでのわたしの議論って太朗が歌を集めて配列するというその発想をおもしろがるところに終始してて、洞田のコンセプトしか見てないというか、じゃあ歌集のなかみはどうでもよかったのか、とか、この歌集が洞田明子歌集であることの洞田明子というたった一人の顔はどうなってるのかということを無視していて洞田明子(たち)に対してなんか失礼だったと思った。

 実際に、わたしが思った洞田明子いそうって気持ちは駅アンソロジー対洞田明子歌集、ぐらいの荒い目盛りでやってたものだし、どこかで歌を集めてきたものだしなって一首一首をしっかり読むことをしていなかった。読みづらいとか、本当に一人の姿が出てきているか?とか、失敗しているのでは?っていう議論を聞いて(花山周子さんの洞田明子はこの歌ってできるいい歌がないでしょっていう話とか印象的)、全然ちゃんと読んでなかったなあって分かったし、太朗レベルの、実験性ばかりおもしろがって、洞田明子の作品を作品として扱ってなかった……
 第二に、歌集批評会というものについての認識の雑さがあって、読書会とかとは違って、洞田明子の作った歌集を議論する批評会なんだよなあということ。これはパネリストの、どれだけ批評しても相手がいなくてやりづらい、みたいな話を聞いて(それをだいぶ頭のなかでころがして)はじめてそうか~って思った 。
 それに、歌を送った人たちは、自分の作品がこういうふうに〈私〉を剥奪された形で怒らないのか?って話が出てきて、私も洞田明子なんだけど、そういうことを遠くにうっちゃって実験だ!!めっちゃおもろいやん!!ってなってて作品に対して不誠実でごめんなさいだった。

 花山さんが最後の方で作者論と読者論の話をしていたの、ちゃんと分かれなかったんだけど聞いとけばよかった。読者論たのしいってところからもう少し何か考えてみなきゃなのかも。

 いやでもわたしが一般論とか読者論に興味があるだけかもしれないけどすごい面白い実験という要素はあると思ってます。これは短歌さま(短歌さまは二次会の吉岡さん談話)を神棚にのせたままにしないで云々しようとする態度だけど、短歌さまを神棚にのせただけで満足するのもったいないやん、ってきもちが私にはあるので…… この実験からものすごい切れ味のいいことが言えるかもしれないし、勝手な持ってき方をして恣意的な結論に行ってしまうこともありうるような気がする。

この文章は批評会であった話の完全な再構成ではないけど、いくつか印象に残った話のメモ(後半のパネルディスカッション、発言者より内容優先でメモしていたので誰の話か(この人かも、というのはあるけど)分からなくなっちゃった:情報求)

・一人の作者が作った歌ですってされるとこの人はこういう人かって思うのに、洞田/戸綿とされるとこの歌はこの分類されてるけど作者は男/女じゃない?みたいな気持ちになってしまう。

・女と男や場所など、既知のものをてこにして未知のものを手渡すしかない、その害
→ 一人の(肉体を持った?)人という枠をはずす、形式としてはポストモダンなのに、内容としてはプレモダンになっている

 すべての洞田明子さんとパネリストさんと太朗のおふたりと今日会った人たちのおかげでこんなに楽しいです。ありがとうございます。


2017/3/3
誤字の修正、脚注の追加

*1:誰かこの話をしたり比較をしたりしてほしかった

*2:洞田のなかの各歌の技術点のばらつきという斉藤斎藤さんの話を受けてのはなし

言語学と短歌

 卒業論文を書いた。言語学の語用論という分野、関連性理論について。語用論というのは、言語と実際の文脈との関係、どのようにして人は話し手の意味しようとしていることを理解しているのか、ということを領域としている分野だ。あとで要旨をそのままのせるけど、卒業論文では、関連性理論の話と、それに則ったら短歌がどういう仕組で理解されているのか?という話をした。

 卒論で短歌の話をしてしまうなんて、ひどくつきすぎで困ってしまう。私は、自分の専攻について何だと言えばいいのか分からない時期が長くて、専攻を言語学に決めたのが三回生の後期、就活のどたばたをやって卒論で関連性理論をすると決めたのが六月、実際就活が終わって卒論に手をつけ始めたのが八月、みたいなことをやったので、準備不足で総力戦をやるしかなかった、仕方ない。でも、このテーマ自体はちょうおもしろいところだと思っている。おもしろいよ!

 

要旨(転載):こういう話をしました

 短歌作品の鑑賞は、表現された言葉から様々なイメージが引き出され、また、人によってその捉え方も異なることがある。人はなぜ、そのような作品解釈を行うことができるのかという問題はいままで明らかではなかった。言語の、文脈と相関し、またコード解釈的ではない意味の側面を扱う語用論は、グライスが、言語理解に推論や意図の認識という考え方に焦点を当てたことで大きく進展した。関連性理論は、グライスのこの考えを受け継ぎ、さらに、認知科学的な立場から人間が言語を理解する過程を説明しようとした理論である。その主張は、1. 人間が関連性という概念で特徴づけられる、情報のより効率的な処理を目指していること、2. 伝達行為は、最適な関連性の期待を聞き手に抱かせるものであること、という二つの関連性の原理にまとめられている。関連性理論は、いわゆる字義通りの表現と修辞的な表現とには明確な境界は存在せず連続的な差異でつながっているという見解をとり、その双方に統一的な説明を与えようとしている。本稿では、このような関連性理論を用いて、その背景であるグライスの言語理論から確認したのちに、短歌の解釈の説明を試みる。その結果、取り上げた作品の意味的解釈は説明することが可能であり、短歌の意味解釈過程と関連性理論の体系に符号があることが分かった。また、文学作品の関連性は、個人の世界についての表示の構造的側面を改善することにあるのではないかという主張を行った。他方、短歌の韻律的側面や、作品解釈の社会的側面については扱うことができず、個人と個人の内部の心的表示を前提にしている関連性理論の自然な拡張が必要であると考えられる。

 

というわけで卒論を読んで欲しいです。何らかの手段でパソコンのアドレスをご連絡くださればデータを送ります*1

 

 

Q. ほんとに関連性理論で短歌の解釈が全部説明できるの?

A. 論文だから強気に書いたけどあやしいところもある…… 私は関連性理論にかなり賛成しているけど、韻律の話ができないというのは(論じていない・今後の課題に書いた)は短歌の説明にとって致命的。関連性理論における世界の表示や想定、概念や概念による想定の結びつけの機能なども、もっと洗練した説明が必要だと思う。

 

Q. 言語学とか、学問の言葉で短歌の話をすると、短歌がつまらなくならない?

A. そんなことは絶対にない。理論的・学問的な俎上に載せたぐらいでつまらなくなるものがあるならそれは元からつまらなかっただけ。ある人が、何かを学問の分野に持っていって議論したのがつまらなく見えることはあると思う。それは論者の能力や適正の問題なのでがんばります。

 

Q. 関連性理論があれば、これまでよりもいい批評ができる?言語学を使って短歌が解釈できる?

A. できない。卒論中にも書いた(ので読んで)けど、関連性理論はすでに行われた解釈が、どうしてその解釈であって、ほかの解釈にはならなかったのか、ということしか説明しない。言語学が一定のアルゴリズムとしてはたらいて、短歌の解釈をすることができる、みたいなこともない。でもそうやって、自分の読みの理由を説明することは、批評を人と共有するという点では意味があることだと思う。言語学についてもそうかな。現象を語る言葉が共有されていたら、人によってどういう立場に立つとかがあっても議論がちゃんとできるのでは。最近、斉藤斎藤さんのツイッターとかでナラトロジーの本の話題がツイートされてたりするけど、ナラトロジー(これは言語学というより構造主義的背景からきた文学理論?なのかな?)だって、私性の話にすごく関係すると思う。

 

Q. なんでこんなに趣味に走った卒論が書けたの?

A. 総合人間学部という文系理系問わずなんでも勉強できる学部にいたからかな?うちの大学全体でも、たぶん関連性理論をやってる人は誰もいない。先生にこれがやりたいんです!と持っていって、語用論を卒論で扱うことはどうかなあと言われたけどおしておした。しかもうちの先生は学部生のゼミとか研究室とかもなくて、ある程度書いたら見せてコメントをもらって、みたいな感じのものすごい放牧だった。

*1:2017/2/18追記:ここのページに私が読んでほしいですというのを書いているのを消さない限り、いつでも・お知り合いに限らずどなたでもお気軽にどうぞ。分野が違う方も、理論の話を長めにやってるので大丈夫と思いますし、受け取ったら絶対感想言わなきゃいけないというものでもないです。

連作空間と楽しい線形代数学のはなし―その2

 東北大短歌3号浅野大輝「連作空間論」を読んで考えたことを書く、続きです。

gohannmogumogu.hatenablog.com

話を再開する前に、どういう立場でこれを書いているのか補足しておきます。

 

・〈連作空間〉は比喩:

ここで区別したいのは、物事を数学的な概念を利用して説明してみよう、という論と、実際に物事に数学的な構造があって概念が拡張されるよ!*1という論です。「連作空間論」は前者なので、浅野さんが後半に議論を拡張していく、連作を式で書いてみたりベクトル解析することは今のところ有意味ではないと思っています。だって本当の意味で線形空間ではない*2ため、自然な定義の延長ということがそもそもできません。比喩としてありかどうかは分かりません。対応関係を新たに定義して、納得できる例をだしてもらったら納得すると思います。

 

・楽しい線形代数学:

私は、この記事が連作の読みや構造の理解に役に立つと思って書いていない節があります。「連作空間論」は線形代数の話を背景にしつつ、ちゃんと連作をどう議論するかという話をしていますが、私は線形代数自体とか、概念をぐりぐりするのが楽しいという話をしています。数学を分かんない、ひい~って言いながら勉強するのは楽しいです。私は自律心がないので、大学の授業がなければ自分でできたかあやしいですが。

 

 

 今回の記事では、浅野さんが導入した概念の線形代数的定義を確認します。前記事に引用したように、導入されている概念は〈連作軸〉、〈次元〉、〈連作空間〉、〈基底〉、〈基底空間〉でした。私の対応予想はこれです。

連作空間論―線形代数

〈連作空間〉―線形空間

〈次元〉ー(線形空間の)次元

〈基底〉ー(線形空間)基底(?)

〈連作軸〉―(扱っている線形空間が有限次元数ベクトル空間/有限次元座標空間であると考えて?その)座標軸(?)

〈基底空間〉ー???

 

 線形空間

 前回は、平面座標、空間座標空間とかベクトル空間をめちゃめちゃ一般化したものとして線形空間というものがあります、という話をしました。定義は大事なのでもう一回載せますね。

 集合Vと体*3K(=ℝ*4またはℂ*5)を考え、Vの2つの元の加法+とVの元にKの元をかけるスカラー*6を定める。このとき、ここで定められた加法とスカラー倍が次の条件を(1)ー(8)を満たすとき、VをK上の線形空間という:a,b,c∈*7Vとしα,β∈Kとする。

(1)  a + b = b + a

(2)  a +(b + c) = (a + b) + c

(3)  Vには零元0*8が存在し、すべてのa∈Vに対して、a + 0 = a を満たす。

(4)  各a∈Vには逆元と呼ばれるb∈Vが存在し、a + b = 0 を満たす。

(5)  1a = a

(6)  α(a + b) = αa + αb

(7)  (a + b)α = αa + αb

(8)  α(βa) = αβa

(以下数学定義の引用は磯祐介『ライブラリ理工新数学‐T4:新しい線形代数学通論』2014、サイエンス社

 ちなみに、途中で途切れた直線や平面の一部分は線形空間にはなりません(要素の和が常にその集合の要素にならないといけないので)。この線形空間というものを議論するときにお役立ちなのが、線形独立、基底、次元という概念です。

 

 ここからが新しい話です。

 

線形独立

 線形空間という集合の中の、いくつかの要素を取ってきたグループについて言う性質です。浅野さんの連作空間論にはでてきませんが、これは基底や次元の話のまえにおさえなきゃな概念なので書きます。前の記事で、線形独立というのは、ざっくりそれぞれ違った向きのベクトルの集まりを指して言う、と書きました。線形空間の中のベクトルは、それを足したりやスカラー倍したりそれをまた足したりしても、ちゃんとベクトルであり、その線形空間にふくまれます。逆に考えて、線形空間の要素を一つとって、他の適当なベクトルの式で表すことができます。その線形空間の中で、線形独立なベクトルの集まりがあったとき、そのベクトルたちはみんな違う向きを向いているので、線形独立なベクトルたちのどの要素も、残りの線形独立なベクトルで表すことができません。という話を数学的に書いたら下の話になります。

 

 

f:id:gohannmogumogu:20161207223303p:plain

 数式を入力するということに対して技術的に敗北したのでワードの画像です。フォントだとわかりにくいんですが、ベクトル(線形空間の要素)には普通のアルファベットのaを(といっても数式で入力したのでちょっとフォントが違って見えますが)、スカラー(つまり数字)(Kの要素)はアルファで表されていて、この違いは大事なので注意してください。下の添え字はとりあえずとってきた順番に番号を振りました~って感じのやつです。そして、{}はその中身が集合であることを示す記号です*9。そこにk=1, nという記号があります。これはkが1からn(場合によって決められる適当な自然数)までひとつずつという意味で、結局は{a_1, a_2, a_3,…a_n}と書くところをらくしているわけです。

 この{a_1, a_2, a_3,…a_n}*10の線形結合、というのは、とりあえずとってきたベクトルたちの集合から足し算したりスカラー倍したりスカラー倍したものを足し算したりしてできるベクトルを、とても一般的な形にして表したものです。こうやって、このベクトルたちの線形結合、という風に書くことで、ベクトルたちの集まりの要素を足し算したりスカラ―倍したり…と長々言わないで済ませられます。

f:id:gohannmogumogu:20161207225833p:plain

 {}が集合の記号であったように、〈〉が線形包の記号です。この前わたしがspan()と書いたのも同じく線形包の記号です。

 {a_1, a_2, a_3,…a_n}の線形結合の全体というのは、a_1や a_2や …a_nたちといろんな数を使って表すことができるすべてのベクトルということです。{a_1, a_2, a_3,…a_n}は要素の数がn個の集合ですが、〈a_1, a_2, a_3,…a_n〉になるともとの要素を好き勝手伸ばしたり足したりしたもの全部を含めるので、とても広がります。 

 ( x , y )という形式で表される2次元ベクトルの集合として、x軸とy軸をもつ平面座標を考えてみてください(図を出すべきなんですけどさぼります、必要に応じて紙にxy座標軸を書いてもらえたら…)。この平面座標も線形空間です。ℝ×ℝやℝの2乗と書いて表します*11。その中の2つの要素をとってきた{ ( 0, 1 ) , ( 1, 0 ) }は元が2つの集合です。この集合の線形包〈 ( 0, 1 ) , ( 1, 0 ) 〉はもとの平面全体になります。平面上のすべてのベクトルを、( 0, 1 )と( 1, 0 )の線形結合(足し算したりスカラー倍したりそれを足したり)で表すことができるからです。〈 ( 0, 1 ) , ( 0, 8 ) 〉の場合も考えてみましょう。( 0, 1 )と( 0, 8 )の線形結合で表すことができるのは、y軸上の数だけです。線形結合によって好きな数字をy座標にすることはできますが、x座標はゼロのままです。つまり、〈 ( 0, 1 ) , ( 0, 8 ) 〉はy軸である、と言うことができます。f:id:gohannmogumogu:20161207223321p:plain

  磯先生の本は一次独立と書いていますが、いろんな用語があるだけです。用語の歴史や使い分けはあまり調べていないのであれですが。Σ(シグマ記号)はそのあとに来たものを添え字の数が動く間は足し算しろ、という記号です。シグマ記号にびびる人は、紙と鉛筆を持ってきて、線形結合の引用のところみたいに足し算に開いて式を書いたらいいと思います。f:id:gohannmogumogu:20161207231655p:plain

 このように式変形すると、下の式では、ベクトルa_1(のスカラー倍)がほかのベクトルの線形結合で表されています。ここで、この式はベクトルの係数アルファkがすべて零の時しか成立しない、と線形独立の定義を見ると、どのベクトルもほかのベクトルの線形結合で表すことができない、ということが必要十分条件であると分かります。

 さっきのxy座標空間の例でいえば、( 0, 1 )と( 0, 8 )はそれぞれのスカラー倍で相手を表すことができるので線形独立ではありません(これを線形従属/一次従属と言います)。そして( 0, 1 )と( 1, 0 )の場合はお互いがお互いをスカラー倍で表すことができないので線形独立ですね。なんだか同じ数のベクトルがあっても、線形独立なベクトルの組のほうが豊かな感じです。

 

基底

  さっき線形包の話をしたところで、線形空間である2次元ベクトル空間がその二つの要素 ( 0, 1 )と( 1, 0 )の線形包 〈 ( 0, 1 ) , ( 1, 0 ) 〉によって表せてしまいましたね。このように、線形空間V(と名付けましょう、いま名付けました)の元{a_1, a_2, …a_n}(いくつかベクトルをとってきてaとその添え字で管理しましょう、今決めました)の線形結合でVのすべての元を表すことができる、ということがあります。記号で表せば、

V=〈a_1, a_2, …, a_n〉

 です。便利ですね、記号大好きです(電子的に入力しようと思わない限りは)。線形空間Vとベクトルの組{a_1, a_2, …a_n}がこういう関係になっているとき、{a_1, a_2, …a_n}をVの生成系と呼びます。単なる呼び方の話です。

f:id:gohannmogumogu:20161207235609p:plain

 有限生成というのは、V=〈ベクトル、ベクトル…〉ってなっているとき、その〈〉のなかのベクトルの数が有限個だということです。

 その線形空間を無駄なく張る*12ことができるベクトルの組を、その線形空間の基底である、って感じです。

 2次元数ベクトル空間において、{ ( 1, 0 ), ( 0, 1 ) }は基底です。{ ( 2, 1 ), ( 1, 0 ) }や{ ( 1/2, 1 ), ( -1, 15 ) }だって基底になれます。これらは線形独立なベクトルの組であり、その線形包がちゃんともとの2次元数ベクトル空間になるからです。{ ( 0, 1 ), ( 0, 8 ), ( 1, 0 ) }はどうでしょう。これらの線形包も、確かに2次元数ベクトル空間を構成します。

〈( 1, 0 ), ( 0, 1 )〉=〈( 2, 1 ), ( 1, 0 )〉=〈( 1/2, 1 ), ( -1, 15 )〉であり、

〈( 1, 0 ), ( 0, 1 )〉=……=〈( 0, 1 ), ( 0, 8 ), ( 1, 0 )〉です。

 しかし、{ ( 0, 1 ), ( 0, 8 ), ( 1, 0 ) }は線形独立なベクトルの組ではありません。そのため{ ( 0, 1 ), ( 0, 8 ), ( 1, 0 ) }は基底ではありません。ちなみに、数ベクトル空間で(1, 0, 0,…), (0, 1, 0, 0,…), (0, 0, 1, 0, …), … (0,…,0, 1)と表されるきれいな基底を標準基底とよび、e(と次元の数だけの添え字)で表します。{ ( 1, 0 ), ( 0, 1 ) }は2次元数ベクトル空間の標準基底で、{e_1, e_2}と書かれます。

 

 また前回の記事の例を思い出してみましょう。

 f:id:gohannmogumogu:20161128013930p:plain

 ここでは、{卵ベクトル、にんじんベクトル、牛乳ベクトル}や{プリンベクトル、にんじんしりしりベクトル、にんじんスープベクトル}、{にんじんしりベクトル、にんじんベクトル、にんじんスープベクトル}は基底ですが、{卵ベクトル、にんじんベクトル、牛乳ベクトル、プリンベクトル}や{にんじんベクトル、にんじんスープベクトル、牛乳ベクトル}は基底になりません。{卵ベクトル、にんじんベクトル、牛乳ベクトル、プリンベクトル}において、プリンベクトルは卵ベクトルと牛乳ベクトルの線形結合で表せてしまうので、このベクトルの組全体は線形独立ではありません。また、{にんじんベクトル、にんじんスープベクトル、牛乳ベクトル}でもそうです。

 少し例が冗長になってしまいました。たくさん例を挙げて、基底について確認したかったことは次の二点です。

・基底は何通りも取り方がある

・同じ線形空間の基底は選び方が異なっていても数がおなじ

これはちゃんと定理として証明されていることがらです。

 

次元

(次元) Vを体K上の有限生成の線形空間とする。このとき、Vの基底の元の個数をVの次元(dimension)といい、記号ではdimVと表す。Vが有限生成でない*13ときはVを無限次元線形空間であるといい、dimV=∞とする。

 基底まで来たら次元は簡単ですね。基底は何個ですか?というのが次元です。

 

 このあたりの基底や次元の性質によって、同じ次元の線形空間は大体似たようなものとして同一視して扱えます。例えば実数(複素数でもよい)係数n次の多項式の全体も、加法とスカラー倍を定義することができて線形空間になるんですけど、それについて議論するときは、n次元だから似たようなものだよね~っていってn次元数ベクトル空間みたいにして考えることができます。

 

 軸ってなんなんでしょうね。今まで軸の定義ということをしたことなしに、ふんわり使っていました。磯先生の本でも定義なしで出てくるし、たぶんほかの線形代数の本でも分かってるよね~って感じでしか出てこないんでないでしょうか。典型的には、数ベクトル空間の標準基底の延長したものと一致するものを座標ってよぶことが多いと思うのですが、それだけではないですしね……

 困ったときは参考図書、ということで図書館で二、三冊ぱらぱらしてみました。いくつか関係ありそうな記述があったので引用します。

【座標】coordinates

 ユークリッド平面(空間)の点に数の組を対応させること。デカルトフェルマによって考えられたが、その源流はアポロニオスの円錐曲線論にある。

【座標軸】coordinate axis

  平面あるいは空間上に*座標(正確には直交座標を)を定めるには、原点、単位の長さと互いに直交する2個(空間の場合は3個)の方向を定める必要がある。 すなわち、x軸、y軸(およびz軸)の方向を定める必要がある。この2つないし3つの原点を通る直線(すなわちx軸、y軸(およびz軸))のことを座標軸 と呼ぶ。4次元以上でも同様である。

 座標軸が必ずしも直交しない場合も座標が定まり、これを*斜交座標という。

 

ユークリッド空間】Euclidean space

 平面、3次元空間などの概念の高次元版である。n個の実数の組全体Rのn乗に、(引用者注:…式の入力に力尽きたので内積の定義式省略、常識的に知られている内積です…)なる内積を入れて考えたものである。ユークリッド距離*14を考えて、距離空間とみなす。

 ユークリッド空間というときは、特定の座標の取り方や原点の取り方は、決めずに考える。…

(『岩波 数学入門辞典』、2005、岩波書店

  忘れてましたけど座標軸は原点を通るっていうの大事ですね。

ユークリッド空間】…

 ユークリッド幾何学の公理をみたす空間を、ユークリッド空間という。実数体Rの上のn次元ユークリッド計量線形空間を基準ベクトル空間とするアフィン空間がn次元ユークリッド空間(n-dimensional Euclidean space)Eのn乗*15である。(…中略)この意味でEのn乗とRのn乗={(x_1, x_2,…, x_n) | x_i ∈R }とは一対一に対応づけられる。この意味でEのn乗とRのn乗とを同一視してRのn乗自身を単にユークリッド空間と呼ぶことが多い。(中略…)ユークリッド空間Rのn乗の点xはn個の実数の組(x_1, x_2,…, x_n) によってあらわされ、(中略…)、x_i を点xの第i座標(i-th coordinate),点(0, 0,…,0)を Rのn乗の原点(origin)、点集合{x|-∞ < x_i < ∞ , x_j = 0 (j i)}*16をx_i軸(axis)または第i座標軸(coordinate axis)という。

(『岩波 数学辞典第四版』2007、岩波書店

 

【初等幾何】

…座標導入のアイデアはそもそもは16世紀のデカルト(Descartes)によるが、平面上の点や図形の位置が座標によって記せることの恩恵は大きい。たとえばR×R(引用者注:Rの2乗と表記されている)は、成分ごとの加法に関してR上のベクトル空間とみなすことができる。…

…平面Rの2乗に、長さや角度を測る基礎となる内積(1)(引用者注:その前のほうで定義されている)を付随させて、とくにユークリッド平面(Euclidean plane)と呼びEの2乗で表す。すなわちユークリッド平面とは、平面Rの2乗に直行座標系という情報を付け加えた幾何学の台空間のことで、直線に座標を入れた実直線に対応する。

(『朝倉 数学辞典』、2016、朝倉書店)

  もっと調べたら前記事から適当に扱っているユークリッド空間と数ベクトル空間と平面R×Rのことが解決するかもですね。でも私に時間がないのでおいときます。というか辞典ごとで微妙に定義の仕方や出発点が違う感じがして難しい。

 

 あまりしっかり分かった気がしませんが、とりあえず座標軸とは、

・平面や空間(n次元も)に(?)導入される、点を数の組で表すシステム座標の道具

・座標によって定められた原点を通り、第なんとか座標の値を定める直線

線形空間の次元と同じ数ある

ってぐらいのイメージで行こうと思います。

 基底と座標軸ってどういう関係なんでしょう、最初の引用の中の定義では、軸だって自由に定めることができそう(実際斜交座標みたいなものはある)ですが、二番目の引用の中のRのn乗の場合は軸は一意的に定めることしかできません。基底はベクトル(線形空間の元)であり、基底の一つ一つを任意にスカラー倍した集合は、それぞれ原点を通る直線になって、軸っぽさもあるようなきがするのですが……わからない。

 

基底空間

 辞書の索引で調べたんですが一個もでてきませんでした。語から類推しようにも、基底(によって張られる)空間、だった場合、それはそれを基底とする線形空間自体になるのでちがうよなあ。数学用語に探すのはあきらめます。

 

 

 とにかく、ここでようやく「連作空間論」にこっそり登場する道具をそろえることができました。この数学的道具と「連作空間論」を比べてみて思ったことや、無限次元線形空間へのロマンの話をするのが全体の話の適切な着地点なんだろうと思うのですが、卒論の首が回らなくなってきて書けるかどうか非常にあやしいので、めちゃざっくりメモだけして終わりにします。

 

 

  • 連作から読むことができる作品世界、というのと、連作(をベクトル的にとらえて)その歌たちの線形包として構成される〈連作空間〉*17(という線形空間的な存在)という対応づけや、「〈連作空間〉には〈私〉が触れうる範囲のありとあらゆるものが存在している。であれば、〈連作空間〉と連作はイコールではないだろう。」というのは、上のような線形代数の話を知っていると大変共感した。

 

  • 「〈基底〉とはつまり、〈連作空間〉の内部の事物を、その性質や概念などに応じてつなぎ合わせるベクトルである。」「〈基底〉によって〈連作空間〉の中のあるまとまった範囲の情報を表現することが可能である。この〈連作空間〉に〈基底〉によって設定された限定的な空間が〈基底空間〉である。」は分からない。
  • 線形代数の話を忘れて考えると、歌と歌とのつながりによって見える道筋とが〈基底〉で、その文脈的な拡大が〈基底空間〉という風に読むことができるだろうか。でも、線形代数の話を思い出すと、そもそも基底によって表現される範囲って基底の定義からして線形空間全部になるやん、わからん、みたいになる。そのためその後の基底や基底空間の説明をうまく呑み込めていない…

 

  • 「ある連作の作品世界を把握するために必要になる評価のための軸を〈連作軸〉と呼び、その個数を〈次元〉と呼ぶ」と〈次元〉を定義されると、数学の次元が基底により定義されることから、逆算されて〈連作軸〉って基底(線形空間でいう)やん、といいたくなってしまう(言いがかりかもしれない)。
  • 連作の作品世界と線形空間を対応させることの良い点として、私は基底の付け替えができること、つまり、同じ現象に対して違った仕方で評価ができる点というのを見たい。しかし浅野さんが連作軸を基底的な付け替え可能なものとして見ているのかどうか、このあたりの概念のところがいまいち釈然としない。
  • 最初に連作軸を評価のための軸だと定義したあと、「読者という〈連作軸〉」が後ろのほうで登場してくるのは混乱した。でもこのあたりが、人によって連作の評価軸(これは自然言語の意味での軸)が違うということを汲んでるのかな。
  • これに関連して、前衛短歌において「実世界の作者としての〈私〉と、作品世界としての〈私〉。この複合的な〈私〉の様相により、連作中の世界はより広がりを見せることとなった。」と述べられているけど、前衛短歌の読みの中で、(短歌が私性から逃れられないのはそうだけど、)作者の〈私〉を離れて薄く存在する作品世界の〈私〉に注目する、というのはそんなに批評の要点なのかよく分からなかった。

 

  • 無限次元線形空間の話はたいへんわくわくするので将来的に勉強できたらいいなあ。ベクトルと関数は同じ視点から考えることができる、と初めて聞いたときはめっちゃテンションあがった。ベクトルー無限次元ベクトルー関数(多項式関数だけでなく、三角関数や指数関数も)が、有限ー加算無限ー非加算無限という整理で統一的に表せる、ということに関連してこのHPの図は、ベクトルと関数を同じように扱えるんだ!ってきれいに見えるからたのしい。

    線形代数II/関数空間 - 武内@筑波大

 

*1:このタイプの議論の例としては、∧(かつ)や⇒(ならば)などの論理記号が実際に数学における関数の概念として理解できる!といった論理革命があるのかなあ、と思います。最近講義でちらっと聞いておもしろい!!と思っただけなので論理革命については出典が分かりません。

関数とは、ある集合の要素(一つでも複数でもいい)を、別の集合の要素一つに対応させる写像として捉えられます。ものを入れたらものが出てくるというやつです。そして論理記号は、個々の命題の真理値を連結した命題の真理値へ移す、真理値から真理値への写像というわけです。

*2:前記事末尾のメモで触れたように、短歌に交換可能な加法乗法は成立しない

*3:体:普通の(順番を変えたり複数回おこなっても答えが変わらない)足し算と掛け算ができて、その答えも自らのうちに含む数の集合のこと。当座の理解では私たちが知ってる数だと思って大丈夫です。つまり掛け算足し算はあたりまえでなくて、それが普通じゃないものについても想定しているわけですよね。数学のこういうところさいこーじゃないですか?そうやっていろんなことが自明じゃないかもしれないってやるから定義の文章とかがややこしくなるんですが……

*4:ℝ:実数real numberの記号。ちなみにこのℝという書かれ方は、手書きの時などに太字ということを表すための書き方です。Rと書く本もあると思います。

*5:ℂ:複素数complex numberの記号

*6:スカラーっていうのは数のことです、たぶん。ベクトルという数ではないものに対して、数字をかけたもの、ということでスカラー倍と言われています。

*7:∈:含まれる、という記号。ここではa,b,cがVという集合の要素であることを示す

*8:数学の記号に太字が出てきたら、ベクトルを表している。これは数字のゼロではなくて、ゼロベクトルの意味

*9:たとえば自然数という集合を{1, 2, 3, …}と表すことができる

*10:これはa_1, a_2と名前をとりあえず付けてみたベクトルたちの集合

*11:実数の軸が2つあるということですね。ℝの2乗と書くほうが一般的な表記な気がしますが入力能力がなくてその…

*12:ベクトルとかの話をするときに、かなりナチュラルに「張る」という言葉を使ってしまうのですが、線形結合で表す、ぐらいのつもりで言っています。

*13:有限個の元をどのように選んで線形包をとっても、Vにならない場合

*14:常識的に知られている距離と思ってもらえば

*15:表記あきらめました、すみません

*16:{ }のなかに縦棒|が入っている記号は、この要素のうちこんな性質をもってるやつの集合といういみです。このばあい、n個の実数の組で表せる点x(という名前を便宜的につけた)のうち、、あるi番目の要素以外は全部ゼロで、i番目の要素は何をとってもいい点(無限にある)の集合ということをあらわしています。

*17:混乱してくるけどこの〈〉カッコは線形包のかっこではない