歌会で何を話すか

 一般的に、関西の歌会は修辞重視で、関東の歌会はイメージング重視だ、みたいな話がある。なんとなくそうなのかも知れないな、と思うときもあるし、血液型占いとかの適当な占いの言葉みたいに、言われてみればそんな感じに思えてくる、程度の話なのかもしれない。

 ともかく私は、歌会では、どこの言葉がどのように働いていて、それによってその歌がどんな風に読めるか、ということを話すのが一つの誠実さだと思っている(その歌が一番よくなる読みを探るとか、他にもたくさんの誠実さがあると思う)。それは私がしてもらえたら助かる、と思うのがそういう批評だからで、自分の歌が人からどう読まれるのかは自分じゃ見えないし、技術的な問題として何をどうすることによって歌が良くなったり良くなくなったりするのか分かりたいからだ。では実際にそういう分析を極めたところでいい歌を作る方法論、みたいなものに至るか、というとそうでもなさそうだし、論理的・分析的な批評をしたいというのは無限への大いなる挑戦みたいなところはあるのだけれど……

 そして、歌からずっと脱線して自分の話をするタイプの評について、自分の話をしたいだけなのでは?よそでやってくれ、ぐらいの気持ちが正直あったのだけれど、ちょっとそれがただそういうことでもないなと思ってきた。

 

mess-y.com

このようなくつろいだ環境で行われる議論は、文体分析などよりも、むしろある本が読者の人生とどう結びつくかについてのものになりやすいようです。(中略)自分の人生や性格に結びつけた意見交換を行うことで女性たちの間に連帯感が生まれ、悩みのシェアや助け合いにつながることもあります。母と娘で親子のイベントとして議論に参加したり、友人同士で絆を深めたりする機能もあるのです。

 タイトルがまあ不愉快なんだけど、読んで、自分の話をしていくという作品との出会い方があるし必要とされていたってことが腑に落ちた。考えてみれば、文学作品を読んでいくっていうのは、この下の句のパンチ力がすごい、とか助詞が「は」であることによって歌がかがやいている!とかそういうのだけじゃなくて、作品世界を人生のバリエーションというかある種の拡張みたいなものとして経験するところがあるし、それを作品の中だけでなくて、読者側にもどして考えるというのは当然あるものだよなあ。そんなこともちゃんと分かってなかったのかという話ではあるけど、私は基本的に論理と知識と習慣しか信じられるものがないと思っているところがあるので仕方がない。

 じゃあ歌会で、歌からどんどん好きな方へ話をそらしていってもいいとは思わないけれど、人間の共感や経験というものを、無条件に排除しなくてはいけないと考えるのは普通に違ってた。最初に私はこういう批評が誠実さなんじゃないか、みたいなことを書いたけど、それも本当にそうなのか考え続けないといけない。歌会にいっても、いい批評ができなくて帰ってしゅんとしてしまうことばっかりだ。

 

 

 何回か読み直して、リンクの記事自体にはけっこう不満になってきた。この記事はエマ・ワトソンフェミニズムの読書会がって導入から、昔は女性が読書会をする文化があってね、って流れで、

 バーナデットは読書会に男性を入れたくないと主張しており、以下のようにずいぶん手厳しい発言もします。

「男性が入ると、力関係がくずれてしまうわ。男性って、みんなで楽しく議論しないうえ、偉そうに一方的にしゃべるんですもの。自分の持ち時間なんか無視して、平気でいつまでもしゃべってるわ」(p. 10)

 って『ジェイン・オースティンの読書会』という本を引用して紹介していくんだけど、“男性は理論的”っていう固定観念はなんかそのままにされてると思う。

 

もちろん理屈っぽい批評をする人は女性にもいますし(私ですね)、また理屈っぽい批評が嫌いな男性読者も山ほどいるはずです。しかしながら女性の前でやたら威張りたがる男性に対して経験から警戒心を持っている女性は多いので、女性だけで本を読みたいという人もいるのでしょう。

 筆者もこういうことは言ってるけど、題に男性は理論的で女性は感情的みたいな話をナチュラルに持ってくるのってだめじゃない?? 過去そういうふうに読書会があったんですよ、とするのはともかく、現在のエマ・ワトソンの読書会の話までしておいたのに、旧来の男性排除的なフェミニズムっぽい落とし所にされていると思ったし、それはよくないと思った。

 

 

11/13未明

最初のバージョン

11/13午後 

深夜にがーって書いて投稿したのであまりにも文の係り結びが悪いところをやや直しました。

CHITENの近現代語

 地点という劇団があります。今出川通白川通の交差点にアンダースローという劇場があって、そこを拠点に活動しています。地点の公演はどれも観ていてあがるものがある、というとざっくりすぎるけど、圧倒的な体験だと思います。これから、地点のレパートリーで私が一番好きな『CHITENの近現代語』のことを書きます。これもやっぱり圧倒的な体験で、なんかすごいです、見てください、感想きかせてください、ぐらいしか言えなくて、将来的にこれがいかにいいのか書けるようになりたいのですが、結局書かないと書けるようにならないだろうと思ってきたので書きます。また近現代語を見て、もっとよくまとめられるようになったらさらに書きたいです。

 

 まず、『CHITENの近現代語』は、複数のテキストがコラージュされた作品です。使用テキストは、パンフレットによると以下のようになっています。

大日本帝国憲法(告文・憲法発布勅語・本文)、朝吹真理子『家路』、終戦の詔勅玉音放送)口語訳、日本記者クラブ公式記者会見記録(1975/10/31)、別役実『象』、『犬養木堂氏大演説集』、F.カフカ『彼』(長谷川四郎訳)、日本国憲法前文

 どこかで又聞きした記憶では、『家路』は繰り返される夏と戦争(のイメージ?)の話、『象』は原爆症の男の戯曲であるらしく、記者クラブの記録というのは「陛下、戦争責任についてどう思われておられますか?」という裕仁天皇への質問とやりとりです。なかなかそうそうたるテキストですね。誤解のないように一応言っておくと、これらが反戦とか、何かのメッセージを作り上げるとかいうことではないです。

 近現代語は、目をつむった五人の役者さんが手さぐりの動きをしながら舞台に横一列に並び、朕は……、すめらわれ……、と文語調の語りから始まり(たぶん御告文と憲法発布勅語でしょう)、途中から大日本帝国憲法の本文に入ります。テキストの話され方は、音楽的というのか、音節や抑揚が外されているところ、複数人が追いかけたりかぶせたりように言葉をつづけるところや、声を伸ばしたりするところなど緩急があります。そのうちに語りから色々なシーンが繋がれて展開します。全体を通して、声を聞くことの快楽があるなあって思います。

 遅れて一人だけかっちりした服の役者さんが舞台の端の椅子に座ります。彼は条文を読み上げたりせず黙ったまま、ほとんど座っていて、敬礼しているときもあります。役者さんはみんな人間っぽくないというか、個人の意志や人格のようなものと遠い印象なのですが、彼はとくべつ象徴的ななにかを担っているような感じです。

 条文や玉音放送を朗読している時、役者さんたちはある種の媒体みたいで、自意識とか人間性から遠いのは、そりゃそうとも言えます。断片的にさし挟まれている役者さんが登場人物になって会話したりするシーンでも、セリフは異化されているけれど、強い情感や力をもって迫ってくる。その登場人物は、ある気持ちや意志でもってなにかを言葉や行動に移す、という流れではないように見えて、それが自意識からの遠さなんでしょうか。私は最近、登場人物の意思決定と行動で物事が進展するタイプの物語と、登場人物もいろいろ行動するけれども彼らが他人や世界を変えられるわけでもなくてただ翻弄されるタイプの物語と、みたいなことが気になり始めて、(語り手が人物の心中を描写するかどうかによっても差がでてくるのかもしれないけど)、近現代語のそれぞれのシーンも、チェーホフの戯曲も後者なのかな、と思ったりします。これはもっと小説をたくさん読んで知ってから考えてみたいです。

 条文パートとシーンパートがコラージュされているなかで、条文パートは大日本帝国憲法玉音放送日本国憲法前文、と次第に時代が進んでいきます。玉音放送が役者さんの口を通して語られるなかで「臣民」という言葉ははもって強調されます。近現代語の最後の部分は、私がまだはっきり整理できていないのですが、犬養毅の演説のなかで間投詞のように挟まれる「話せば分かる」や、その背後でなされる足し算は議会制民主主義に対して何か皮肉のようです。一度目は、外部の力と、端っこに座った彼の口パクで、二度目は演説をしていた女性一人の熱唱として君が代が歌われます。そして、いちおく、にせん、ろっぴゃく、…(正確な数値は忘れましたが一の位まで言われます)……国民!(正確には、こっくみーん、と)言われて劇は締めくくられます。いや、どこを終わりとするのか正直分かりません。そのあと役者さんたちは、観客の私たちにむかって、ブラボー!と言ったり、満面の笑みで拍手をします。めっちゃ拍手です。四回も見ているのに毎回たじろいでしまいます。最近、これも、条文の時代が進んでいくのも、戦争とか天皇とか憲法とか、過去っぽくなってしまいそうなこの作品を、観客の私たちに差し出しているのかなあと思うようになりました。国民はわれわれなんですよね。

 

2017/2/1追記

どんな内容なのかだいたい分かっちゃってどうなのかという指摘をもらったことを思い出したんですけど、演奏会とか、全部知ってる曲目だとしても聞きに行く、むしろ知ってて好きな曲のほうが聞きに行くじゃないですか。上演の空間を共有するということがすごいたのしいと思うので見に行く人が私のまわりにも増えたらいいなという気持ちで書きました。こういうところがあってこう思いましたというここで書いた書き方はあんまり上手じゃないなと思ったのでもっと良い書き方ができたらいいなと思います。

 

真鍋美恵子『羊歯は萠えゐん』

 昨日は月と六百円*1で真鍋美恵子第六歌集『羊歯は萠えゐん』(1970)を読んだ。

 真鍋美恵子(1906-1994)は、葛原妙子(1907-1985)と同年代で、以前の月と六百円で真鍋の『玻璃』を扱ったときにも葛原や森岡貞香(1916-2009)との関係も話に上がった。

 

八月のまひる音なきときありて瀑布のごとくかがやく階段

ざくろの実にふかき亀裂はれたらん夜の明け方を星座燃ゆれば

 八月の日光にたちくらむような一瞬をイメージした。音のないその一瞬に、階段が瀑布のごとくかがやいて見える。感覚が視覚に集中されて、階段のかがやきが強く押し出される。 

 二首目。倒置になっていると思ったので、明け方に星座が燃えているので/と、ざくろの実に亀裂は生まれているだろう、という因果関係や時系列的な提示だろうか。ざくろの実深くの赤と星座燃ゆ、という意味からの景ではなくて、語彙レベルの赤いイメージが冬の澄みとおった明け方において結ばれている。

 しかし、これらの歌、特に二首目は真鍋の歌として挙げるのに適切かというとそうではない気がする。歌集を通読して受けるのは、物事が凝視のあまり歪んでいくような、混沌を増していくような印象だ。

濡れし旗落ちたるやうなひびきして朽ちし引けば朽ちし扉しまりつ

固定せるもののはげしさ地下底にコンクリの柱くろぐろと立つ

  意味としては当たり前のことがリフレインされたり、固定されて一般には静的、と見えるものにはげしさが見出されている。永田和宏は、多用されるリフレインについて「自明の足場のゆらぎ」と述べているが、それはコンクリの柱のはげしさや(避雷針がかわいているという歌もあった)、連作の中で、ひとつの対象物を繰り返し繰り返し詠む執拗さにおいてもそうだと思う。私たちが普段当たり前や自明だと思って過ごしていることへ、言及を重ねたり、それを成り立たしめている力を見出したりされている。そこから世界の自明でなさや、歪みのようなものが感じられる。

 

 そして、『羊歯は萠えゐん』を読んでいて感じたことは、作者自身の情報や感情へ言及がなされないこと・歌の作為・構図が見えないことだ。作者についてはほとんど何も触れていなくて、作者が64歳のときの歌集だというのにすこし驚くぐらいだ。数多く直喩が使われているが、

セメントのにほふ地下駅葱の束解きたるがごと若者らゐる

鉄材置場におびただしき鉄積まれゐて酢のごとく青き夜が来てゐる

なんかは、めちゃくちゃ的を射た喩を目指しているわけでも、比喩表現の側から象徴的なイメージを重ねたいわけでもないように思われる。歌の中でいくつかの要素が因果関係や並列関係で示されるものも多いけれど、どうも一首の中のそのつながりがきまっている、もしくはそこから作者の感情が読める、ということができない。「サービス精神でない作り方」という発言もあったけれど、本当にそうだと思う。

びつしよりと樹液に濡れしを踏みて猫ゆけりそのけものの清さ

目を病みて人は眠れり人参の畑にべつたりと空ある夕べ

まつ白き鉄塔が見ゆ酢の壜を割りたれば強く酢のにほふ窓

 単に適当にずらして面白がっているだけなんじゃないの?と感じてもよさそうなのだが、何か構図や感情を示したいのではなさそうだし、必然性のあるものとして説得されてしまう。秀歌性ではないのだけど、歌と歌われているものとが互いにはみ出し合いながら私たちの受け止め方を重くしている気がする。

音みちて雪はふりをり対ひゐる人に眼帯の翳ふかくなる

 

 勉強会では、めちゃいい歌集だっていう人もけっこういたけど、私はまだそこまで読みこなせていない。読んでいるうちに、私の〈葛原妙子イメージ〉が段々接近してきた気がするし、この時代の歌集を将来的にもっと消化できるかな。

 

 

*1:塔の事務所での勉強会、塔の会員でなくても参加している

千種創一歌集『砂丘律』

名古屋の砂丘律の批評会に行った。でも、前から決めていた京大短歌22号の校正の日程をずらすのは絶対にだめだと思ったので、すぐ京都に戻った。昼食会には行かずに帰ってしまったし、今回の批評会のことはなんだかもにょっている。

あんまりもにょりすぎて布団に入ったのに目が冴えてしまったので、私が砂丘律についてどう思ってるかとか、パネルを聞いてて考えたことをざーっと書いておこうと思う。きっと昼食会とかその後とかで、こんなことやそれよりもっと面白そうな話がされているのだろうな、と思うとめちゃくちゃうらやましい。うらやましいぞ

 

 

祈るかのように額づくショベルカー 砂山にいま夕闇が来る

どら焼きに指を沈めた、その窪み、世界の新たな空間として

映像がわるいおかげで虐殺の現場のそれが緋鯉にみえる

実弾はできれば使ふなといふ指示は砂上の小川のやうに途絶える

初冬の坂をのぼった、犬ほどの電気ストーブ捨てにいくとき

砂丘律は、喩やイメージの重ねあわせ、発見を提示する歌が多い。表記できなくて引用できなかったのだけど、アラビアに雪降らぬゆえ…の歌も発見の歌だ。個人的には、「犬ほどの電気ストーブ」、みたいな言われるまでまったく結びつかないけど言われたら結びつく、みたいな喩が好きだ。吉川宏志さんの『青蟬』とか『夜光』とかと、モチーフや文体はもちろん大きく違うけど、喩や把握のうまさが共通していて、やっぱり千種さんは塔の人なんだな~ということを思った。(塔全体については私の勝手なイメージでしかないけど)吉川さんとの共通性を考えればもう一つ、景(描写)と心情(もしくは箴言)というようなあわせ鏡的な構造の歌もそうだ。

明日もまた同じ数だけパンを買おう僕は老いずに君を愛そう

オリーブの葉裏は鈍い剣のいろ 反権力を言へば文化人かよ

一首目はとても好きな歌だ。老い、とか言われるとエモくなってしまう、みたいな話かもしれないけどそれでも。景と心情、という構造の歌は、心情部が言い過ぎなんじゃないかって思う時もあった。

 

パネルで加藤治郎さんが、最初「風化は三月のダマスカスにて」とシリアに立ったかのように思えるところからずっと回想的な日本のシーン→緊張感のある中東→中東とも日本とも、二つのイメージが交錯するっていう風に構成を評してたのがすごく納得した。

最初あたりの日本での連作は、回想しているような、今の時間が後になって回想されることを意識しているような、時制がふわっとした空気になっている。

流し場の銀のへこみに雨みちて、その三月だ、君をうばった

雪原で泣くんだろう泣きながらたばこ吸うんだろう僕は

一葉の写真のせいで組みなおす鳥居と鳥居の後の記憶を

過去形だったり、未来だったりと、「今ここ」の実景に焦点をあてるのとはちがう抒情になっている。モチーフのレトロさ(「瓦斯灯」とか「写真機」とか出てくる)もあいまってなんだかそういう映画みたいだ。

「辞令と魚」という連作で、舞台は中東へ移る。〈にっぽんを発つというのに心臓が仙人掌みたい、メキシコみたい〉とか、この連作はそれまではぼうっとしていた〈私〉の色々な情報を読者に教えてくれてる感じがする。中東に移ってからの〈私〉の表れ方はくっきりめだ。中東の情勢を意識的に扱った連作もいくつかあって、歌集の中で締まっている部分だ。その後Ⅴ部からまた、〈私〉の像はぼんやりする。かといって回想的ではない。(時制や〈私〉がはっきりしているほうがいいと思っているわけではない)「日本と中東のイメージが交錯する」、「惑星ソラリスみたい」という発言を考えながら、この辺はもうちょっと私の中で考えてみたい。こういう風に歌集が構成されてるのは、私は読みやすいし好きだった。

砂丘律のめだった特徴として、句読点や韻律はあると思うけどなんかまだよく分からない。読んでいて普通に、この歌どう読めばいいんだろうって引っかかったりする。

 

 

この批評会、サブタイトルみたいなんが「口語短歌の新たな地平」ってなってたけどそれがけっこうもにょったことのその一。土岐さんの『Bootleg』批評会で、もう口語歌っていう一絡げで論を進めるのは違うだろう、という話が出たと記憶している。口語が云々っていう話は目盛が荒すぎるんじゃないか、ていうか千種さんの歌はそれほど口語的な口語じゃないし。

石段は湖底へと延びこれからするであろう悪いほうの祈り

光あれ 一頁目は朝焼ける砂漠へ檸檬を絞るごとくに

二首目はあきらかに口語ではないけど、文語の助動詞が使われていなくても、一首目の「であろう」とか、他にも「のち」「ゆえ」「次いで」みたいな語彙もみつけたけど、こういうのは少なくとも会話するときには使わない。あと、語彙や句読点とか、すごく派手だと思うし((。口語、にも幅があって、ほんとうに会話のときの話し言葉とか、文章中には使うけど口では言わない言葉とか、短歌で見るし詩的だけど日常言わないし書かない、みたいな言葉とか。純粋に話し言葉じゃない口語歌がよくないということが言いたいわけじゃもちろんないです、一応。永井さん・土岐さんあたりが話し言葉みたいな志向性があって、その話し言葉の辞で勝負しているのだと思うけど、千種さんの歌は喩や把握や文体で勝負していると思う。

もう一つには、歌われているテーマについて。私は勝手に、中盤の連作と中東の事情とかを誰かがかなり詳しめに説明してくれて、それを別の人が、でもこの歌集は社会詠てきなものだけに頼った歌集じゃないよね~っていって別の分析をする、みたいなことを批評会に期待していたのだけど、全然その辺が触れられなかった。光森さんが触れたという(?)「或る秘書官の忠誠」が、もとは「或る忠誠」で匿名で発表されてた、という話も、それって当時の情勢とめっちゃ関係してた、みたいなことじゃないの?って想像したりするけど消化不良。おいおい自分で調べるしかないかな。

 

ともかくも、好きな歌をいくつか

手におえない白馬のような感情がそっちへ駆けていった、すまない

抱いたあなたが山女魚(やまめ)のように笑うとき僕はきれいな川でありたい

あっ、ビデオになってた、って君の声の短い動画だ、海の

 

 

 

 

 

 

 

稀風社『誰にもわからない短歌入門』に入門する

 『誰にもわからない短歌入門』(以下『誰短』)を先週葉ね文庫へ駆けこんで買ってきました。

 

 宣伝されていたように、短歌と短歌?なものたちへの一首評の本。そして入門書。

 三上春海さんと鈴木ちはねさんが往復書簡形式で評をしているので、一つの歌に二人の評が読める。山田航と穂村弘の『世界中が夕焼け』みたいな。いや、『誰短』では評のリレーが歌を越えてつながっているからだいぶ性質が違った。あわのさんがツイートしていたけれども、二人で応答を重ねながら書かれている、ということがとてもよくて、この本を磁場のようなものにしている。いま稀風社のブログを見たら、

1.「これは」とおもう歌を選んで相手にメールで送る
2.600字から1200字程度の評を書いて送り返してもらう
  このとき評とともに次に扱う歌を送ってもらう
3.評をもらい次第その評も含めたうえで自分の評を書く
4.送ってもらった歌の評を書いて相手に送り返す
  このとき評とともに相手に次に扱いたい歌を送る
5.これを約10ヶ月にわたってくり返す

 って書いてあって、えっ、企画の形式と持続性がめっちゃすごくないですか、って思ったりしました。

 

 まず、伊丹小夜さんの表紙が、元々ついったーで見たことのある人で、立体的な平面性というのか、すごく立体的に物を把握しているのに平たいパーツにして描いてあるといった雰囲気で、ジャケ買いさせるぞ~みたいなものを感じた。超個人的には、旧そうな制服とか、二人に入っている朱の色が違うとか机に縄跳びかなんか掛かってんなあ、みたいなのによさを感じる。

 本文を読んでいくと、すごくいい読みだなあ、とかちょっとそうは思わないけど、とかあってすごく楽しい。けれど、『誰短』が特徴的なのはその読みそれぞれではなくて、読みと切り離せない、全体の中での歌の位置取りや評をする立場の確認みたいなもの、そしてある種信仰に近いような思想がしっかり表明されていること、二人がお互いやいままでの評の流れを受けつつ話を進めていることなんじゃないか、とか。

 ブログで公開されていた試し読みや、文フリに行ってきた人の戦利品で好きな歌の評だけ見せてもらっていた時はただのいい一首評の本だったんだけど、最初から読んでいくと二人のやりとりの中で啓蒙されてしまいそうな気すらする。

 この感覚は少しデジャビュがあって、それは、きょうたんに入って短歌を始めた頃。歌会での評や、歌会後ごはんとかツイッターとかで話される主義主張とか、私の最初期の短歌的価値観は全部きょうたんの人々から型取ってきた、と言うのも全く過言ではない。そういった、場のエネルギーみたいなものが『誰短』の中からあふれている、と思った。

 啓蒙されるのは楽しい、これは勉強するときの楽しさに似ている。でも、それだけでは怠惰だしつまらなさにも通じる、すごく当たり前のことなのに上手く書けなくて困っているのだけれど、ちょっとだめだよね、というのは分かってもらえると思う。この一年とちょっとの間の私の悩みは、いかにきょうたんの人たちの影響を影響と自覚して咀嚼するか、自分で自分の道を開くかということで、これもやっぱり勉強するときの何かに似ているように思ってきたけど、まだまだ未解決問題だなあ。とはいえ私は知識があること、勉強することを価値があることだと思っている、劣等感の裏返しなのかもしれない、ので啓蒙してもらえるときにはじゃんじゃかしてもらおうと思います。

 

 メモ:

評の説得力として、文体やフレーズの力がものすごいと思った。

笹井宏之さんへの一首評で、鈴木さんが修辞を丁寧に分析してから、「深いところに通底する作為への抵抗感」って述べていたのが、苦手な歌への表明の仕方としてめっちゃよかった。

石井さんの文章、「三万円――石井僚一短歌賞創設にあたって」っていうタイトルも「その歌の作者に僕の三万円をあげたいかどうか。気持ちの良い自腹になるといいな。」っていうのも最高。

 

15/12/11

評論がこれよりは字数が増えた、まだまだなのに疲れたのと、書いてなかったことがあったので追記。

『誰短』を読んでいて、この本めちゃくちゃ想定読者層がせまいのでは?そこにしっかりはまっちゃったのでは?っていう思いや、短歌に特に触れてないけど文章に興味がある人もたのしいだろう、という思いがあって、要するに何だか普通の短歌同人誌と射程がちがうなあ、という以上のことは分からなかったんだけど。

みんないいと思うだろうな、ではなくて、これを推しているのは私だけだって読者に思わせるのがいい作品だ、みたいなことをやぶうちさんか誰か(ほんとうにおぼろげ)が書いてたと思うんだけどそういうあれですかね。そしてこの言葉はいつの誰のだったのかしら…