洞田明子の〈私〉

 中野サンプラザに行くときはほとんど、カフェオレのせいでお腹の調子が悪くなっている気がする。2月25日の洞田の批評会に行って、すごく面白かったので、その会の話の部分や私が考えたことの話をします。
 (以下発言と書きつつ誰のと明示しないものはみんな)発言者があいまい(すみません)だけど、『洞田』についてコンセプチュアルだとか、実験的だとかいう話が出ていた。
 私もこれは問題提起や考察が明示されていない実験で、これをいろんな向きで切っていろんな議論ができるのではないかっていう可能性にすごくわくわくした。でも斉藤斎藤さん(や他のパネルさんも?)実験の目的が示されていないことに対して否定的な立場で、その点や、歌集批評会という制度において『洞田』を扱う点やその他についてひっかかってはるようだった。批評会を聞いて反省したことは後述します。

 確かに論文だったら序論の問題提起や考察は大事なので、実際に問題提起→実験→考察、みたいな形式のなかで洞田を考えてみたい。

 実験系の論文の形式にあてはめてみよう!(耳学問だけど) 実験系の論文の形式をいくつか検索して(こういうのを見た)

http://tyamlab.web.fc2.com/tips/writing.html
http://wakate-lab.sho.geo.jp/hp/3-2.shtml

いわゆるIMRAD型というのに従う。以下にやってみたのはひとつの例という感じで、他にもいっぱい問題提起や考察のしかたがあるはず、夢が広がる。


やってみた
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論文タイトル: 歌集『洞田』に基づく短歌の文脈についての考察

要旨(省略)

序論(introduction)

短歌の一首は、場(とは?)によってどのような読まれ方をするのか? 〈私性〉(とは?)はどのように歌の読みを左右するのか?

特に短歌連作や歌集の中での一首の読みと作品全体や作者(とは?)との関係において

特に先行研究(とここでは呼ぼう)には、瀬戸夏子さんの『町』の中での、自作と引用歌を交互にとりまぜた作品*1や、歌集『町』など。特に前者では、引用歌が瀬戸さんの歌の磁場に引き込まれた感じがした。後者については、技術点*2がそろっている(堂園さん)などの発言

方法(methods)

テーマ詠「駅」の募集

集まった歌を落とさず変えず、短歌同名ユニット太朗が編集(詞書は任意に付与)して配列する

洞田明子歌集『洞田』へ

Ⅰ部は詞書きを多用し、性別、来歴、属性の提示、Ⅱ部はトポスをそろえること(??わたしは言われたことが理解できていない)、Ⅲ部は文体的な統一性からの〈私〉像の構築(これら大辻さんせいり)

結果(results)

A. 一首取り出すと/作者名と一緒に見るといい歌なのに、歌集中ではその魅力が削がれている歌がある

B. Ⅰ部は属性が分かるけど、Ⅲ部とかのほうが〈私〉がいそうな感じがする(という発言)

考察(discussion)

A →短歌一首を読むには文脈(とは? 作品を読むときに持ってくる作品以外のもの、とざっくりしよう、背景とも)が重要。連作や〈私〉像はその文脈を作る。

 出てくる事件や出来事があれねっていうのもあるだろうけど、文脈や背景が特に大事なのは、どういう抒情なのか、みたいなのが分かる。加藤克巳や森岡貞香や高瀬一誌のような作風をその人の歌と知らずに読むのは難しい(というかわたしはできる気がしない)。他にも竹山広のフセイン像をたたく少年の歌みたいな感情をどう読み込むか、どのような感情がこもっている(と読める)のか、みたいなのも。

短歌の文脈を作る二つの要素

・作品の範囲
基本/最小単位としての一首
歌たちの表題と配列
連作や歌集、ある創作者が発表したすべての歌(全歌集)
ある創作者の歌と散文の時系列的配列を含むすべての集合(全集とか?)

・作者の範囲
作品の発表された時代
作品の作り手の実人生
属性、経験、心情


 この二つの文脈的要素(独立ではない)が短歌の私性で、それをどのように補給して読むのかが私性の問題系(と定義すると議論しやすいと思うんだけどどうかなあ)。

B→私性というと、最近は後者の方が取沙汰されてきたけど前者(これを私性に入れるかどうかの議論はあると思うけど)がけっこう大事なのでは?

 すると、一首単独で素晴らしい歌ってあるのか?あったとしたらそれは、文脈が読者の手持ちのものですぐおっけーだった場合??

 作者の実人生や、アルターエゴみたいなことをしない場合でも、私性(という言葉を使わないなら作品の文脈や背景)はすっごく大事なのでは?

 エッセイと比べたら作品の修辞とか独立性があるのに、小説と比べたら作者まで作品に必要な文脈になってしまうのが短歌

 なぜか。佐佐木幸綱やカミハルさんの言うように短歌がうただったからというだけで説明できるのか(その議論、きれいに整理される感じがして好きではあるけど)。歴史的背景とだけ言ってしまっていいのか。連歌・俳句との比較……?
 個々人がある作品に対してどのように作者の文脈の範囲を考えるのかという問題。個人の考えと共同体の考えとはどういうふうに? 批評や歌壇の役割はここにあるのだろうか? なんか脱線してきた……

結論

 短歌一首を読むに当たっては、連作や作者の情報(それは実人生でなくても作風とかその作者のやろうとしてることとか)が重要になる。

 一般に〈私〉像と言われているものは、作者の性別・年齢・職業なんてものではなく、いわゆる文体とかなのではないか

残された課題
先行研究の検討不足、問題の絞りが甘い、結果と考察にちょっと飛躍がある(わたしが勝手に急ごしらえの問題提起と考察をつけたしてみたんだから当然である)

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 こういう感じの議論がめっちゃ作れそうで、洞田の実験性!!みたいなことにわたしはテンションをあげていたけれど、批評会を聞いていろいろ誠実でなかったなあと反省しました。まず第一に、これまでのわたしの議論って太朗が歌を集めて配列するというその発想をおもしろがるところに終始してて、洞田のコンセプトしか見てないというか、じゃあ歌集のなかみはどうでもよかったのか、とか、この歌集が洞田明子歌集であることの洞田明子というたった一人の顔はどうなってるのかということを無視していて洞田明子(たち)に対してなんか失礼だったと思った。

 実際に、わたしが思った洞田明子いそうって気持ちは駅アンソロジー対洞田明子歌集、ぐらいの荒い目盛りでやってたものだし、どこかで歌を集めてきたものだしなって一首一首をしっかり読むことをしていなかった。読みづらいとか、本当に一人の姿が出てきているか?とか、失敗しているのでは?っていう議論を聞いて(花山周子さんの洞田明子はこの歌ってできるいい歌がないでしょっていう話とか印象的)、全然ちゃんと読んでなかったなあって分かったし、太朗レベルの、実験性ばかりおもしろがって、洞田明子の作品を作品として扱ってなかった……
 第二に、歌集批評会というものについての認識の雑さがあって、読書会とかとは違って、洞田明子の作った歌集を議論する批評会なんだよなあということ。これはパネリストの、どれだけ批評しても相手がいなくてやりづらい、みたいな話を聞いて(それをだいぶ頭のなかでころがして)はじめてそうか~って思った 。
 それに、歌を送った人たちは、自分の作品がこういうふうに〈私〉を剥奪された形で怒らないのか?って話が出てきて、私も洞田明子なんだけど、そういうことを遠くにうっちゃって実験だ!!めっちゃおもろいやん!!ってなってて作品に対して不誠実でごめんなさいだった。

 花山さんが最後の方で作者論と読者論の話をしていたの、ちゃんと分かれなかったんだけど聞いとけばよかった。読者論たのしいってところからもう少し何か考えてみなきゃなのかも。

 いやでもわたしが一般論とか読者論に興味があるだけかもしれないけどすごい面白い実験という要素はあると思ってます。これは短歌さま(短歌さまは二次会の吉岡さん談話)を神棚にのせたままにしないで云々しようとする態度だけど、短歌さまを神棚にのせただけで満足するのもったいないやん、ってきもちが私にはあるので…… この実験からものすごい切れ味のいいことが言えるかもしれないし、勝手な持ってき方をして恣意的な結論に行ってしまうこともありうるような気がする。

この文章は批評会であった話の完全な再構成ではないけど、いくつか印象に残った話のメモ(後半のパネルディスカッション、発言者より内容優先でメモしていたので誰の話か(この人かも、というのはあるけど)分からなくなっちゃった:情報求)

・一人の作者が作った歌ですってされるとこの人はこういう人かって思うのに、洞田/戸綿とされるとこの歌はこの分類されてるけど作者は男/女じゃない?みたいな気持ちになってしまう。

・女と男や場所など、既知のものをてこにして未知のものを手渡すしかない、その害
→ 一人の(肉体を持った?)人という枠をはずす、形式としてはポストモダンなのに、内容としてはプレモダンになっている

 すべての洞田明子さんとパネリストさんと太朗のおふたりと今日会った人たちのおかげでこんなに楽しいです。ありがとうございます。


2017/3/3
誤字の修正、脚注の追加

*1:誰かこの話をしたり比較をしたりしてほしかった

*2:洞田のなかの各歌の技術点のばらつきという斉藤斎藤さんの話を受けてのはなし

言語学と短歌

 卒業論文を書いた。言語学の語用論という分野、関連性理論について。語用論というのは、言語と実際の文脈との関係、どのようにして人は話し手の意味しようとしていることを理解しているのか、ということを領域としている分野だ。あとで要旨をそのままのせるけど、卒業論文では、関連性理論の話と、それに則ったら短歌がどういう仕組で理解されているのか?という話をした。

 卒論で短歌の話をしてしまうなんて、ひどくつきすぎで困ってしまう。私は、自分の専攻について何だと言えばいいのか分からない時期が長くて、専攻を言語学に決めたのが三回生の後期、就活のどたばたをやって卒論で関連性理論をすると決めたのが六月、実際就活が終わって卒論に手をつけ始めたのが八月、みたいなことをやったので、準備不足で総力戦をやるしかなかった、仕方ない。でも、このテーマ自体はちょうおもしろいところだと思っている。おもしろいよ!

 

要旨(転載):こういう話をしました

 短歌作品の鑑賞は、表現された言葉から様々なイメージが引き出され、また、人によってその捉え方も異なることがある。人はなぜ、そのような作品解釈を行うことができるのかという問題はいままで明らかではなかった。言語の、文脈と相関し、またコード解釈的ではない意味の側面を扱う語用論は、グライスが、言語理解に推論や意図の認識という考え方に焦点を当てたことで大きく進展した。関連性理論は、グライスのこの考えを受け継ぎ、さらに、認知科学的な立場から人間が言語を理解する過程を説明しようとした理論である。その主張は、1. 人間が関連性という概念で特徴づけられる、情報のより効率的な処理を目指していること、2. 伝達行為は、最適な関連性の期待を聞き手に抱かせるものであること、という二つの関連性の原理にまとめられている。関連性理論は、いわゆる字義通りの表現と修辞的な表現とには明確な境界は存在せず連続的な差異でつながっているという見解をとり、その双方に統一的な説明を与えようとしている。本稿では、このような関連性理論を用いて、その背景であるグライスの言語理論から確認したのちに、短歌の解釈の説明を試みる。その結果、取り上げた作品の意味的解釈は説明することが可能であり、短歌の意味解釈過程と関連性理論の体系に符号があることが分かった。また、文学作品の関連性は、個人の世界についての表示の構造的側面を改善することにあるのではないかという主張を行った。他方、短歌の韻律的側面や、作品解釈の社会的側面については扱うことができず、個人と個人の内部の心的表示を前提にしている関連性理論の自然な拡張が必要であると考えられる。

 

Q. ほんとに関連性理論で短歌の解釈が全部説明できるの?

A. 論文だから強気に書いたけどあやしいところもある…… 私は関連性理論にかなり賛成しているけど、韻律の話ができないというのは(論じていない・今後の課題に書いた)は短歌の説明にとって致命的。関連性理論における世界の表示や想定、概念や概念による想定の結びつけの機能なども、もっと洗練した説明が必要だと思う。

 

Q. 言語学とか、学問の言葉で短歌の話をすると、短歌がつまらなくならない?

A. そんなことは絶対にない。理論的・学問的な俎上に載せたぐらいでつまらなくなるものがあるならそれは元からつまらなかっただけ。ある人が、何かを学問の分野に持っていって議論したのがつまらなく見えることはあると思う。それは論者の能力や適正の問題なのでがんばります。

 

Q. 関連性理論があれば、これまでよりもいい批評ができる?言語学を使って短歌が解釈できる?

A. できない。関連性理論はすでに行われた解釈が、どうしてその解釈であって、ほかの解釈にはならなかったのか、ということしか説明しない。言語学が一定のアルゴリズムとしてはたらいて、短歌の解釈をすることができる、みたいなこともない。でもそうやって、自分の読みの理由を説明することは、批評を人と共有するという点では意味があることだと思う。言語学についてもそうかな。現象を語る言葉が共有されていたら、人によってどういう立場に立つとかがあっても議論がちゃんとできるのでは。最近、斉藤斎藤さんのツイッターとかでナラトロジーの本の話題がツイートされてたりするけど、ナラトロジー(これは言語学というより構造主義的背景からきた文学理論?なのかな?)だって、私性の話にすごく関係すると思う。

 

Q. なんでこんなに趣味に走った卒論が書けたの?

A. 総合人間学部という文系理系問わずなんでも勉強できる学部にいたからかな?うちの大学全体でも、たぶん関連性理論をやってる人は誰もいない。先生にこれがやりたいんです!と持っていって、語用論を卒論で扱うことはどうかなあと言われたけどおしておした。しかもうちの先生は学部生のゼミとか研究室とかもなくて、ある程度書いたら見せてコメントをもらって、みたいな感じのものすごい放牧だった。

連作空間と楽しい線形代数学のはなし―その2

 東北大短歌3号浅野大輝「連作空間論」を読んで考えたことを書く、続きです。

gohannmogumogu.hatenablog.com

話を再開する前に、どういう立場でこれを書いているのか補足しておきます。

 

・〈連作空間〉は比喩:

ここで区別したいのは、物事を数学的な概念を利用して説明してみよう、という論と、実際に物事に数学的な構造があって概念が拡張されるよ!*1という論です。「連作空間論」は前者なので、浅野さんが後半に議論を拡張していく、連作を式で書いてみたりベクトル解析することは今のところ有意味ではないと思っています。だって本当の意味で線形空間ではない*2ため、自然な定義の延長ということがそもそもできません。比喩としてありかどうかは分かりません。対応関係を新たに定義して、納得できる例をだしてもらったら納得すると思います。

 

・楽しい線形代数学:

私は、この記事が連作の読みや構造の理解に役に立つと思って書いていない節があります。「連作空間論」は線形代数の話を背景にしつつ、ちゃんと連作をどう議論するかという話をしていますが、私は線形代数自体とか、概念をぐりぐりするのが楽しいという話をしています。数学を分かんない、ひい~って言いながら勉強するのは楽しいです。私は自律心がないので、大学の授業がなければ自分でできたかあやしいですが。

 

 

 今回の記事では、浅野さんが導入した概念の線形代数的定義を確認します。前記事に引用したように、導入されている概念は〈連作軸〉、〈次元〉、〈連作空間〉、〈基底〉、〈基底空間〉でした。私の対応予想はこれです。

連作空間論―線形代数

〈連作空間〉―線形空間

〈次元〉ー(線形空間の)次元

〈基底〉ー(線形空間)基底(?)

〈連作軸〉―(扱っている線形空間が有限次元数ベクトル空間/有限次元座標空間であると考えて?その)座標軸(?)

〈基底空間〉ー???

 

 線形空間

 前回は、平面座標、空間座標空間とかベクトル空間をめちゃめちゃ一般化したものとして線形空間というものがあります、という話をしました。定義は大事なのでもう一回載せますね。

 集合Vと体*3K(=ℝ*4またはℂ*5)を考え、Vの2つの元の加法+とVの元にKの元をかけるスカラー*6を定める。このとき、ここで定められた加法とスカラー倍が次の条件を(1)ー(8)を満たすとき、VをK上の線形空間という:a,b,c∈*7Vとしα,β∈Kとする。

(1)  a + b = b + a

(2)  a +(b + c) = (a + b) + c

(3)  Vには零元0*8が存在し、すべてのa∈Vに対して、a + 0 = a を満たす。

(4)  各a∈Vには逆元と呼ばれるb∈Vが存在し、a + b = 0 を満たす。

(5)  1a = a

(6)  α(a + b) = αa + αb

(7)  (a + b)α = αa + αb

(8)  α(βa) = αβa

(以下数学定義の引用は磯祐介『ライブラリ理工新数学‐T4:新しい線形代数学通論』2014、サイエンス社

 ちなみに、途中で途切れた直線や平面の一部分は線形空間にはなりません(要素の和が常にその集合の要素にならないといけないので)。この線形空間というものを議論するときにお役立ちなのが、線形独立、基底、次元という概念です。

 

 ここからが新しい話です。

 

線形独立

 線形空間という集合の中の、いくつかの要素を取ってきたグループについて言う性質です。浅野さんの連作空間論にはでてきませんが、これは基底や次元の話のまえにおさえなきゃな概念なので書きます。前の記事で、線形独立というのは、ざっくりそれぞれ違った向きのベクトルの集まりを指して言う、と書きました。線形空間の中のベクトルは、それを足したりやスカラー倍したりそれをまた足したりしても、ちゃんとベクトルであり、その線形空間にふくまれます。逆に考えて、線形空間の要素を一つとって、他の適当なベクトルの式で表すことができます。その線形空間の中で、線形独立なベクトルの集まりがあったとき、そのベクトルたちはみんな違う向きを向いているので、線形独立なベクトルたちのどの要素も、残りの線形独立なベクトルで表すことができません。という話を数学的に書いたら下の話になります。

 

 

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 数式を入力するということに対して技術的に敗北したのでワードの画像です。フォントだとわかりにくいんですが、ベクトル(線形空間の要素)には普通のアルファベットのaを(といっても数式で入力したのでちょっとフォントが違って見えますが)、スカラー(つまり数字)(Kの要素)はアルファで表されていて、この違いは大事なので注意してください。下の添え字はとりあえずとってきた順番に番号を振りました~って感じのやつです。そして、{}はその中身が集合であることを示す記号です*9。そこにk=1, nという記号があります。これはkが1からn(場合によって決められる適当な自然数)までひとつずつという意味で、結局は{a_1, a_2, a_3,…a_n}と書くところをらくしているわけです。

 この{a_1, a_2, a_3,…a_n}*10の線形結合、というのは、とりあえずとってきたベクトルたちの集合から足し算したりスカラー倍したりスカラー倍したものを足し算したりしてできるベクトルを、とても一般的な形にして表したものです。こうやって、このベクトルたちの線形結合、という風に書くことで、ベクトルたちの集まりの要素を足し算したりスカラ―倍したり…と長々言わないで済ませられます。

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 {}が集合の記号であったように、〈〉が線形包の記号です。この前わたしがspan()と書いたのも同じく線形包の記号です。

 {a_1, a_2, a_3,…a_n}の線形結合の全体というのは、a_1や a_2や …a_nたちといろんな数を使って表すことができるすべてのベクトルということです。{a_1, a_2, a_3,…a_n}は要素の数がn個の集合ですが、〈a_1, a_2, a_3,…a_n〉になるともとの要素を好き勝手伸ばしたり足したりしたもの全部を含めるので、とても広がります。 

 ( x , y )という形式で表される2次元ベクトルの集合として、x軸とy軸をもつ平面座標を考えてみてください(図を出すべきなんですけどさぼります、必要に応じて紙にxy座標軸を書いてもらえたら…)。この平面座標も線形空間です。ℝ×ℝやℝの2乗と書いて表します*11。その中の2つの要素をとってきた{ ( 0, 1 ) , ( 1, 0 ) }は元が2つの集合です。この集合の線形包〈 ( 0, 1 ) , ( 1, 0 ) 〉はもとの平面全体になります。平面上のすべてのベクトルを、( 0, 1 )と( 1, 0 )の線形結合(足し算したりスカラー倍したりそれを足したり)で表すことができるからです。〈 ( 0, 1 ) , ( 0, 8 ) 〉の場合も考えてみましょう。( 0, 1 )と( 0, 8 )の線形結合で表すことができるのは、y軸上の数だけです。線形結合によって好きな数字をy座標にすることはできますが、x座標はゼロのままです。つまり、〈 ( 0, 1 ) , ( 0, 8 ) 〉はy軸である、と言うことができます。f:id:gohannmogumogu:20161207223321p:plain

  磯先生の本は一次独立と書いていますが、いろんな用語があるだけです。用語の歴史や使い分けはあまり調べていないのであれですが。Σ(シグマ記号)はそのあとに来たものを添え字の数が動く間は足し算しろ、という記号です。シグマ記号にびびる人は、紙と鉛筆を持ってきて、線形結合の引用のところみたいに足し算に開いて式を書いたらいいと思います。f:id:gohannmogumogu:20161207231655p:plain

 このように式変形すると、下の式では、ベクトルa_1(のスカラー倍)がほかのベクトルの線形結合で表されています。ここで、この式はベクトルの係数アルファkがすべて零の時しか成立しない、と線形独立の定義を見ると、どのベクトルもほかのベクトルの線形結合で表すことができない、ということが必要十分条件であると分かります。

 さっきのxy座標空間の例でいえば、( 0, 1 )と( 0, 8 )はそれぞれのスカラー倍で相手を表すことができるので線形独立ではありません(これを線形従属/一次従属と言います)。そして( 0, 1 )と( 1, 0 )の場合はお互いがお互いをスカラー倍で表すことができないので線形独立ですね。なんだか同じ数のベクトルがあっても、線形独立なベクトルの組のほうが豊かな感じです。

 

基底

  さっき線形包の話をしたところで、線形空間である2次元ベクトル空間がその二つの要素 ( 0, 1 )と( 1, 0 )の線形包 〈 ( 0, 1 ) , ( 1, 0 ) 〉によって表せてしまいましたね。このように、線形空間V(と名付けましょう、いま名付けました)の元{a_1, a_2, …a_n}(いくつかベクトルをとってきてaとその添え字で管理しましょう、今決めました)の線形結合でVのすべての元を表すことができる、ということがあります。記号で表せば、

V=〈a_1, a_2, …, a_n〉

 です。便利ですね、記号大好きです(電子的に入力しようと思わない限りは)。線形空間Vとベクトルの組{a_1, a_2, …a_n}がこういう関係になっているとき、{a_1, a_2, …a_n}をVの生成系と呼びます。単なる呼び方の話です。

f:id:gohannmogumogu:20161207235609p:plain

 有限生成というのは、V=〈ベクトル、ベクトル…〉ってなっているとき、その〈〉のなかのベクトルの数が有限個だということです。

 その線形空間を無駄なく張る*12ことができるベクトルの組を、その線形空間の基底である、って感じです。

 2次元数ベクトル空間において、{ ( 1, 0 ), ( 0, 1 ) }は基底です。{ ( 2, 1 ), ( 1, 0 ) }や{ ( 1/2, 1 ), ( -1, 15 ) }だって基底になれます。これらは線形独立なベクトルの組であり、その線形包がちゃんともとの2次元数ベクトル空間になるからです。{ ( 0, 1 ), ( 0, 8 ), ( 1, 0 ) }はどうでしょう。これらの線形包も、確かに2次元数ベクトル空間を構成します。

〈( 1, 0 ), ( 0, 1 )〉=〈( 2, 1 ), ( 1, 0 )〉=〈( 1/2, 1 ), ( -1, 15 )〉であり、

〈( 1, 0 ), ( 0, 1 )〉=……=〈( 0, 1 ), ( 0, 8 ), ( 1, 0 )〉です。

 しかし、{ ( 0, 1 ), ( 0, 8 ), ( 1, 0 ) }は線形独立なベクトルの組ではありません。そのため{ ( 0, 1 ), ( 0, 8 ), ( 1, 0 ) }は基底ではありません。ちなみに、数ベクトル空間で(1, 0, 0,…), (0, 1, 0, 0,…), (0, 0, 1, 0, …), … (0,…,0, 1)と表されるきれいな基底を標準基底とよび、e(と次元の数だけの添え字)で表します。{ ( 1, 0 ), ( 0, 1 ) }は2次元数ベクトル空間の標準基底で、{e_1, e_2}と書かれます。

 

 また前回の記事の例を思い出してみましょう。

 f:id:gohannmogumogu:20161128013930p:plain

 ここでは、{卵ベクトル、にんじんベクトル、牛乳ベクトル}や{プリンベクトル、にんじんしりしりベクトル、にんじんスープベクトル}、{にんじんしりベクトル、にんじんベクトル、にんじんスープベクトル}は基底ですが、{卵ベクトル、にんじんベクトル、牛乳ベクトル、プリンベクトル}や{にんじんベクトル、にんじんスープベクトル、牛乳ベクトル}は基底になりません。{卵ベクトル、にんじんベクトル、牛乳ベクトル、プリンベクトル}において、プリンベクトルは卵ベクトルと牛乳ベクトルの線形結合で表せてしまうので、このベクトルの組全体は線形独立ではありません。また、{にんじんベクトル、にんじんスープベクトル、牛乳ベクトル}でもそうです。

 少し例が冗長になってしまいました。たくさん例を挙げて、基底について確認したかったことは次の二点です。

・基底は何通りも取り方がある

・同じ線形空間の基底は選び方が異なっていても数がおなじ

これはちゃんと定理として証明されていることがらです。

 

次元

(次元) Vを体K上の有限生成の線形空間とする。このとき、Vの基底の元の個数をVの次元(dimension)といい、記号ではdimVと表す。Vが有限生成でない*13ときはVを無限次元線形空間であるといい、dimV=∞とする。

 基底まで来たら次元は簡単ですね。基底は何個ですか?というのが次元です。

 

 このあたりの基底や次元の性質によって、同じ次元の線形空間は大体似たようなものとして同一視して扱えます。例えば実数(複素数でもよい)係数n次の多項式の全体も、加法とスカラー倍を定義することができて線形空間になるんですけど、それについて議論するときは、n次元だから似たようなものだよね~っていってn次元数ベクトル空間みたいにして考えることができます。

 

 軸ってなんなんでしょうね。今まで軸の定義ということをしたことなしに、ふんわり使っていました。磯先生の本でも定義なしで出てくるし、たぶんほかの線形代数の本でも分かってるよね~って感じでしか出てこないんでないでしょうか。典型的には、数ベクトル空間の標準基底の延長したものと一致するものを座標ってよぶことが多いと思うのですが、それだけではないですしね……

 困ったときは参考図書、ということで図書館で二、三冊ぱらぱらしてみました。いくつか関係ありそうな記述があったので引用します。

【座標】coordinates

 ユークリッド平面(空間)の点に数の組を対応させること。デカルトフェルマによって考えられたが、その源流はアポロニオスの円錐曲線論にある。

【座標軸】coordinate axis

  平面あるいは空間上に*座標(正確には直交座標を)を定めるには、原点、単位の長さと互いに直交する2個(空間の場合は3個)の方向を定める必要がある。 すなわち、x軸、y軸(およびz軸)の方向を定める必要がある。この2つないし3つの原点を通る直線(すなわちx軸、y軸(およびz軸))のことを座標軸 と呼ぶ。4次元以上でも同様である。

 座標軸が必ずしも直交しない場合も座標が定まり、これを*斜交座標という。

 

ユークリッド空間】Euclidean space

 平面、3次元空間などの概念の高次元版である。n個の実数の組全体Rのn乗に、(引用者注:…式の入力に力尽きたので内積の定義式省略、常識的に知られている内積です…)なる内積を入れて考えたものである。ユークリッド距離*14を考えて、距離空間とみなす。

 ユークリッド空間というときは、特定の座標の取り方や原点の取り方は、決めずに考える。…

(『岩波 数学入門辞典』、2005、岩波書店

  忘れてましたけど座標軸は原点を通るっていうの大事ですね。

ユークリッド空間】…

 ユークリッド幾何学の公理をみたす空間を、ユークリッド空間という。実数体Rの上のn次元ユークリッド計量線形空間を基準ベクトル空間とするアフィン空間がn次元ユークリッド空間(n-dimensional Euclidean space)Eのn乗*15である。(…中略)この意味でEのn乗とRのn乗={(x_1, x_2,…, x_n) | x_i ∈R }とは一対一に対応づけられる。この意味でEのn乗とRのn乗とを同一視してRのn乗自身を単にユークリッド空間と呼ぶことが多い。(中略…)ユークリッド空間Rのn乗の点xはn個の実数の組(x_1, x_2,…, x_n) によってあらわされ、(中略…)、x_i を点xの第i座標(i-th coordinate),点(0, 0,…,0)を Rのn乗の原点(origin)、点集合{x|-∞ < x_i < ∞ , x_j = 0 (j i)}*16をx_i軸(axis)または第i座標軸(coordinate axis)という。

(『岩波 数学辞典第四版』2007、岩波書店

 

【初等幾何】

…座標導入のアイデアはそもそもは16世紀のデカルト(Descartes)によるが、平面上の点や図形の位置が座標によって記せることの恩恵は大きい。たとえばR×R(引用者注:Rの2乗と表記されている)は、成分ごとの加法に関してR上のベクトル空間とみなすことができる。…

…平面Rの2乗に、長さや角度を測る基礎となる内積(1)(引用者注:その前のほうで定義されている)を付随させて、とくにユークリッド平面(Euclidean plane)と呼びEの2乗で表す。すなわちユークリッド平面とは、平面Rの2乗に直行座標系という情報を付け加えた幾何学の台空間のことで、直線に座標を入れた実直線に対応する。

(『朝倉 数学辞典』、2016、朝倉書店)

  もっと調べたら前記事から適当に扱っているユークリッド空間と数ベクトル空間と平面R×Rのことが解決するかもですね。でも私に時間がないのでおいときます。というか辞典ごとで微妙に定義の仕方や出発点が違う感じがして難しい。

 

 あまりしっかり分かった気がしませんが、とりあえず座標軸とは、

・平面や空間(n次元も)に(?)導入される、点を数の組で表すシステム座標の道具

・座標によって定められた原点を通り、第なんとか座標の値を定める直線

線形空間の次元と同じ数ある

ってぐらいのイメージで行こうと思います。

 基底と座標軸ってどういう関係なんでしょう、最初の引用の中の定義では、軸だって自由に定めることができそう(実際斜交座標みたいなものはある)ですが、二番目の引用の中のRのn乗の場合は軸は一意的に定めることしかできません。基底はベクトル(線形空間の元)であり、基底の一つ一つを任意にスカラー倍した集合は、それぞれ原点を通る直線になって、軸っぽさもあるようなきがするのですが……わからない。

 

基底空間

 辞書の索引で調べたんですが一個もでてきませんでした。語から類推しようにも、基底(によって張られる)空間、だった場合、それはそれを基底とする線形空間自体になるのでちがうよなあ。数学用語に探すのはあきらめます。

 

 

 とにかく、ここでようやく「連作空間論」にこっそり登場する道具をそろえることができました。この数学的道具と「連作空間論」を比べてみて思ったことや、無限次元線形空間へのロマンの話をするのが全体の話の適切な着地点なんだろうと思うのですが、卒論の首が回らなくなってきて書けるかどうか非常にあやしいので、めちゃざっくりメモだけして終わりにします。

 

 

  • 連作から読むことができる作品世界、というのと、連作(をベクトル的にとらえて)その歌たちの線形包として構成される〈連作空間〉*17(という線形空間的な存在)という対応づけや、「〈連作空間〉には〈私〉が触れうる範囲のありとあらゆるものが存在している。であれば、〈連作空間〉と連作はイコールではないだろう。」というのは、上のような線形代数の話を知っていると大変共感した。

 

  • 「〈基底〉とはつまり、〈連作空間〉の内部の事物を、その性質や概念などに応じてつなぎ合わせるベクトルである。」「〈基底〉によって〈連作空間〉の中のあるまとまった範囲の情報を表現することが可能である。この〈連作空間〉に〈基底〉によって設定された限定的な空間が〈基底空間〉である。」は分からない。
  • 線形代数の話を忘れて考えると、歌と歌とのつながりによって見える道筋とが〈基底〉で、その文脈的な拡大が〈基底空間〉という風に読むことができるだろうか。でも、線形代数の話を思い出すと、そもそも基底によって表現される範囲って基底の定義からして線形空間全部になるやん、わからん、みたいになる。そのためその後の基底や基底空間の説明をうまく呑み込めていない…

 

  • 「ある連作の作品世界を把握するために必要になる評価のための軸を〈連作軸〉と呼び、その個数を〈次元〉と呼ぶ」と〈次元〉を定義されると、数学の次元が基底により定義されることから、逆算されて〈連作軸〉って基底(線形空間でいう)やん、といいたくなってしまう(言いがかりかもしれない)。
  • 連作の作品世界と線形空間を対応させることの良い点として、私は基底の付け替えができること、つまり、同じ現象に対して違った仕方で評価ができる点というのを見たい。しかし浅野さんが連作軸を基底的な付け替え可能なものとして見ているのかどうか、このあたりの概念のところがいまいち釈然としない。
  • 最初に連作軸を評価のための軸だと定義したあと、「読者という〈連作軸〉」が後ろのほうで登場してくるのは混乱した。でもこのあたりが、人によって連作の評価軸(これは自然言語の意味での軸)が違うということを汲んでるのかな。
  • これに関連して、前衛短歌において「実世界の作者としての〈私〉と、作品世界としての〈私〉。この複合的な〈私〉の様相により、連作中の世界はより広がりを見せることとなった。」と述べられているけど、前衛短歌の読みの中で、(短歌が私性から逃れられないのはそうだけど、)作者の〈私〉を離れて薄く存在する作品世界の〈私〉に注目する、というのはそんなに批評の要点なのかよく分からなかった。

 

  • 無限次元線形空間の話はたいへんわくわくするので将来的に勉強できたらいいなあ。ベクトルと関数は同じ視点から考えることができる、と初めて聞いたときはめっちゃテンションあがった。ベクトルー無限次元ベクトルー関数(多項式関数だけでなく、三角関数や指数関数も)が、有限ー加算無限ー非加算無限という整理で統一的に表せる、ということに関連してこのHPの図は、ベクトルと関数を同じように扱えるんだ!ってきれいに見えるからたのしい。

    線形代数II/関数空間 - 武内@筑波大

 

*1:このタイプの議論の例としては、∧(かつ)や⇒(ならば)などの論理記号が実際に数学における関数の概念として理解できる!といった論理革命があるのかなあ、と思います。最近講義でちらっと聞いておもしろい!!と思っただけなので論理革命については出典が分かりません。

関数とは、ある集合の要素(一つでも複数でもいい)を、別の集合の要素一つに対応させる写像として捉えられます。ものを入れたらものが出てくるというやつです。そして論理記号は、個々の命題の真理値を連結した命題の真理値へ移す、真理値から真理値への写像というわけです。

*2:前記事末尾のメモで触れたように、短歌に交換可能な加法乗法は成立しない

*3:体:普通の(順番を変えたり複数回おこなっても答えが変わらない)足し算と掛け算ができて、その答えも自らのうちに含む数の集合のこと。当座の理解では私たちが知ってる数だと思って大丈夫です。つまり掛け算足し算はあたりまえでなくて、それが普通じゃないものについても想定しているわけですよね。数学のこういうところさいこーじゃないですか?そうやっていろんなことが自明じゃないかもしれないってやるから定義の文章とかがややこしくなるんですが……

*4:ℝ:実数real numberの記号。ちなみにこのℝという書かれ方は、手書きの時などに太字ということを表すための書き方です。Rと書く本もあると思います。

*5:ℂ:複素数complex numberの記号

*6:スカラーっていうのは数のことです、たぶん。ベクトルという数ではないものに対して、数字をかけたもの、ということでスカラー倍と言われています。

*7:∈:含まれる、という記号。ここではa,b,cがVという集合の要素であることを示す

*8:数学の記号に太字が出てきたら、ベクトルを表している。これは数字のゼロではなくて、ゼロベクトルの意味

*9:たとえば自然数という集合を{1, 2, 3, …}と表すことができる

*10:これはa_1, a_2と名前をとりあえず付けてみたベクトルたちの集合

*11:実数の軸が2つあるということですね。ℝの2乗と書くほうが一般的な表記な気がしますが入力能力がなくてその…

*12:ベクトルとかの話をするときに、かなりナチュラルに「張る」という言葉を使ってしまうのですが、線形結合で表す、ぐらいのつもりで言っています。

*13:有限個の元をどのように選んで線形包をとっても、Vにならない場合

*14:常識的に知られている距離と思ってもらえば

*15:表記あきらめました、すみません

*16:{ }のなかに縦棒|が入っている記号は、この要素のうちこんな性質をもってるやつの集合といういみです。このばあい、n個の実数の組で表せる点x(という名前を便宜的につけた)のうち、、あるi番目の要素以外は全部ゼロで、i番目の要素は何をとってもいい点(無限にある)の集合ということをあらわしています。

*17:混乱してくるけどこの〈〉カッコは線形包のかっこではない

連作空間と楽しい線形代数学のはなし

 表題の通り東北大短歌3号の浅野さんの「連作空間論」を読んだはなしと、楽しい線形代数のはなしをします。

「連作空間論」は、短歌連作というもの自体について理論を立てたり議論したりすることが必要だ、という問題意識から、線形空間という数学の概念を借りてきて連作について理論を立ててみた、という評論だと思っています。連作を線形空間の比喩で構造化することについて、私は納得するところもあったしひっかかるところもありました。

 例えば山下さんが上のようなツイートをされていますが、踏まえられている数学の話を知っていると、「連作空間論」にはああ~この話ね、みたいなところがあります。何かを批評するときに、哲学の話を引っ張ったり、フロイトラカン精神分析学の話を取ってきたり、ということはまあまああると思います。哲学も数学も、人間が考えうるすべての思考のやり方とか枠組みの総当たり戦みたいな要素があると私は思っている(精神分析学については正直良くわからないので困っている)ので、何かについて考えるとき、数学的な比喩を使ったっておかしくないんだと思います。

 

 「連作空間論」における連作の理論化のどこにどうして納得して、どうして引っかかったかを書きたいし、それを線形代数知ってますという人にしか分かってもらえないのもつまらないので、浅野さんが使っている数学の概念についてしばらく書きます。ただ、私の数学的な知識は、特別数学が出来るわけでもないけれどまあ勉強は楽しんでる理学部二回生程度です。勘違いやよくない定式化、補足などがあれば教えていただければうれしく思います。

   *

  まず、ベクトルとか次元とか空間*1の話をするために、いくつか例え話をします。知ってるよ、て場合は読み飛ばしてもらっても大丈夫です。卵が3個あれば卵焼きが一回作れるというのが正比例です。図で書けば直線です。これは1次元です。卵1個とホットケーキミックス150gと牛乳100mlがあればホットケーキが一回(話を簡単にするために一回と言うけど3枚くらい焼けるかな)焼けるという話もできます。作るのがホットケーキだけならこれも正比例で、空間の中に図示しても直線です。ホットケーキを何枚焼くにしても、卵:ホットケーキミックス:牛乳の比は変わらない、つまり卵100個とホットケーキミックス1.5kgと牛乳10Lを混ぜたものを想像して(あまり想像しやすくはないけど)もらうと、材料は1種類であり、ホットケーキを何枚でもいいからとりあえず焼こうとして買ってくる材料を図に点で打っていくと、これは卵焼きのときと一緒で1次元です(ホットケーキベクトルそれだけでは何次元の空間の中にあっても直線しか構成することができない)。このような空間の中の点は、ある時と場合における買い物袋に入っているそれぞれの材料の量だと思ってください。

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(本に載るようなきれいな図が作れたらいいのですが、そういった専用のソフトなどに通じていないので図がざっくりなのはお許しください。)

 

 そして、牛乳500mlとにんじんすりおろし一本でにんじんのスープができる(二人分くらい、コンソメは台所にあるものとする)とか、卵2個とにんじん1本でにんじんしりしりができる(二人分くらい)、とか卵1個と牛乳100mlでプリンができる(砂糖は常備しているものとする)とかを考えて、にんじんスープやにんじんしりしりやプリンを作る話を図にしようとすると、これらを一緒に作るときの買い物袋の中身に対応する点は空間のいろんなところを動きます。

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 にんじんスープ、にんじんしりしり、プリンを一回つくるのにいい感じの材料をベクトルとして図示してみました。では、にんじんしりしりを一回分、にんじんスープを一人分(一回分の半分)、プリンを3個つくるための材料を考えましょう。これは、(にんじんしりしりベクトル)+ 1/2 ×(にんじんスープベクトル) +  3 ×(プリンベクトル)を足したものです。下の図の青い星ですね。3次元のベクトルを3本足してできるベクトルは、作りたい料理の量のため半分にしたり三倍にしたりした3本のベクトルによって張られる平行六面体の頂点に当たります。

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 そして実際に買い物袋に何がどれだけ入っているのかは、空間の中の青い星を卵軸やにんじん軸や牛乳軸で読み取るとわかります。

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 こんな感じですね。線形空間を話すための下準備のつもりだったのですが、食べ物の話をするうちに楽しくなって長くなってしまいました。準備したものをまとめると、

 

・3次元空間と、その中の3次元ベクトル、そしてそのベクトルによって張られる空間(上の例でにんじん(略)ベクトルたちに好きな数を掛けたりそれらを足したりしてできたベクトルによって与えられる点が移動できる範囲)上の点を例として登場させて、

・1本のベクトルによって張られる空間は1次元、n本の線形独立*2なベクトルによってはられる空間はn次元、

・n次元空間上の点は、最初に設定しておいた直交座標軸によっても表すことができるし、線形独立なn本のベクトルを使ってもそれぞれで一意的に表すことができる、ということです。

   *

 いったん浅野さんの評論に戻ってみましょう。

ある連作の作品世界を把握するために必要になる評価のための軸を〈連作軸〉と呼び、その個数を〈次元〉と呼ぶ。(…中略)「作品世界という多次元空間」を〈連作空間〉という一語で表すこととする。〈連作空間〉とは、連作という作品が存在している多次元空間であり、そのひろがりは〈次元〉という量によって表現される。  ――浅野大輝「連作空間論」

 連作の作品世界が、次元をもった数ベクトル空間*3(中学や高校の数学に出てくる、xyzのような(実)数直線を座標軸にもった空間)ぽい感じで理論化されています。そしてその〈連作空間〉の中に〈基底〉という概念が導入されます。

  いま〈連作空間〉を航行する作者の指針を、〈基底〉という語で表そう。そして〈基底〉によって限定される〈連作空間〉中のある範囲を〈基底空間〉と呼ぶことにする。

 〈基底〉とはつまり、〈連作空間〉の内部の事物を、その性質や概念などに応じて繋ぎあわせるベクトルである。

基底という言葉が評論にでてくることによって、理論の背景が、数ベクトル空間から線形空間へと、より一般的でいろんな議論ができる場所(数ベクトル空間は線形空間である条件を満たしているものの一つ)になったと思いました。

  *

 では数学のほうに話を移して線形空間とは何か、という話をします。こんな注釈をいれなくてはいけないことは申し訳ないのですが、あくまで私の理解なので、数学の本を読まれるのがほんとは一番きっちりしていいと思います。

 線形空間の数学的な定義はこんなです。

 集合Vと体*4K(=ℝ*5またはℂ*6)を考え、Vの2つの元の加法+とVの元にKの元をかけるスカラー倍を定める。このとき、ここで定められた加法とスカラー倍が次の条件を(1)ー(8)を満たすとき、VをK上の線形空間という:a,b,c∈*7Vとしα,β∈Kとする。

(1)  a + b = b + a

(2)  a +(b + c) = (a + b) + c

(3)  Vには零元0*8が存在し、すべてのa∈Vに対して、a + 0 = a を満たす。

(4)  各a∈Vには逆元と呼ばれるb∈Vが存在し、a + b = 0 を満たす。

(5)  1a = a

(6)  α(a + b) = αa + αb

(7)  (a + b)α = αa + αb

(8)  α(βa) = αβa

(以下、数学的定式化は磯祐介『ライブラリ理工新数学‐T4:新しい線形代数学通論』2014、サイエンス社から引用する)

 集合Vの中の要素に足し算が定義されているし私たちが普通の数だと思うものとの掛け算も定義されているし(そしてその加法乗法の結果変なものがでてくるのではなくちゃんとVの要素がでてくるし)、順番を変えたりしても大丈夫って感じの話だと思っています。私の理解では、線形空間とは1次元でも2次元でも3次元以上でも、直線や平面や空間(空間って言葉あんまり使うのどうかと思いますがこの3次元の世界を指して代用できる単語が見つからない)の話をするn次元座標空間をめちゃ一般化したものです。そう、変な感じはしますけど、座標の原点を通る直線(上の点の集合)も1次元の線形空間です。他にも、m×n次行列の集合とか、実数の区間I上の実数値連続関数の全体(つまり区間Iの実数を実数全体へ写す写像の集合)とかも線形空間の条件を満たして線形空間です。m×n次行列の線形空間の次元はm×nですが、関数空間は無限次元です。線形空間はベクトル空間とも呼ばれますし、どっちもけっこうメジャーな呼び方な気がします。今までベクトルという言葉を特にことわりなく使ってましたけど、線形空間(ベクトル空間)の元をベクトルと言います*9

 

 そして、線形空間というものを取り扱うときに欠かせない概念が次元と基底です。

……

 

お疲れ様です、私も疲れました。

 

 

今後にむけたメモ、もしくはダイイングメッセージ

  • 数学からの次元と基底のはなし
  • 短歌というベクトルの集合である連作によって張られる線形空間が連作空間ということでいいだろうか:span ( 短歌, 短歌, 短歌,,,,, ) = 〈連作空間〉
  • 短歌に交換可能な加減乗法は成立するか、短歌ではなく、〈短歌を読んだ時の感じ〉を集合の元としてみると…?(これ自体は言いがかり的というか、必ずしも線形空間のモデルに一致する必要性はないだろうけど)
  • 私の思ってる線形空間における基底と評論の〈基底〉が一致しなくて評論の〈基底〉理解に不安がある
  • 基底空間が分からない(評論内部での位置づけと背景にあるならば数学の用語と両方)
  • 〈連作軸〉と線形空間の基底は一致しないのか(私のイメージでは基底をとってそこから評価を考えてもよさそうな気がしてしまうしそのへん同一視してしまう、そうすると基底は自由にとれるから、批評のときによくある同じことをみんな違う言い方するという現象にも対応する気がする。ちなみに数学における軸ってどういう概念だっけ?直交してないとだめ?)
  • 無限次元線形空間(関数空間)へのロマン:〈連作空間〉は無限次元線形空間なのではないか。しかし私は無限次元線形空間の存在しかしらないので、雰囲気しか知らない難しくてすごそうなものに勝手にロマンティシズムを押し付けているだけかもしれない(たぶん私が知ってるものに対してそういうことされたら普通に腹が立つと思う)。
  • 〈基底変換〉と批評をやりとりすること
  • 連作を読む/批評する過程とは与えられた短歌というベクトルから読み手が〈連作空間〉を構成し、〈基底〉or〈正規直交基底〉を定めることである。次元が多ければいい作品とかではなく、〈連作空間〉を我々に構成させる力がどのくらい強く働いているか、みたいな〈連作空間〉や〈基底〉に我々がたどりつく過程それ自体が連作の批評である。というふうなのだとその構造的同型性はすごい共感する。あと、一番よく見えるように連作を読もうとする批評は〈連作空間〉の記述になるのではないか。ただ、連作の次元が明示的に数として表されたり、連作がベクトル関数や滑らかな曲線として意識しようというのはなぜか(なぜだろう)納得できない。
  • 作品それだけでは、それがどのような連作か、という批評は存在しないので、線形空間の中にプロットできるものの対応物として連作があります、というのは神の視点の議論ぽくて違和感もある。もちろん読みの話も後半でされているしモデル化とはそういうものなのかもしれないけど。
  • モデル化という批評:それがたとえいろんなものを取りこぼしてしまうとしても語らないという選択肢はないし、取りこぼしたものは拾いにかえりたい。

 

*1:山下さんが言った集合に構造を導入してそう呼ぶ空間というより、直線―平面―空間という話をするときの空間のほうをイメージしてほしくて空間って言ったんですけど、空間という語彙の適切な使い方について正直良くわかってません。座標によって指定された点の集合があり、その点の集合に構造が入っている、と思えばn次元空間(n=1~∞)は構造を持った点の集合としての空間であり、とくにn=3の場合は何次元か述べずに空間と言うって感じなのかしら……

*2:それぞれ違った向きをむいているベクトルたちの集まりを指して線形独立なベクトルと思えばいいと思います。違った向きというのはざっくりすぎる言い方で、線形独立なベクトルの組の中のどのベクトルも、ほかのベクトルを拡大縮小したり足しあわせても表すことができないという状態です。あとで数学の定義も書きます。さっきの例をまた使うなら、(もう家にあったホットケーキミックスをあてにして)卵2個とにんじん1/2本と牛乳100mlを買い物するにんじんケーキベクトルを考えた場合、にんじんケーキベクトルとにんじんしりしりベクトルとプリンベクトルは線形独立ではありません。なぜならその買い物はプリン1個(卵1、牛乳100)とにんじんしりしりを1/2回分(卵1、にんじん1/2)作ろうと買い物をするときと同じ(にんじんケーキベクトルはにんじんしりしりベクトルとプリンベクトルによって張られる平面の上にある)だからです。

(にんじんケーキベクトル)=1/2×(にんじんしりしりベクトル)+(プリンベクトル)

線形独立でないベクトルの組を線形従属といいます。にんじんしりしりベクトルとプリンベクトルとにんじんケーキベクトルが線形従属なら、にんじんしりしりベクトルとプリンベクトルとにんじんケーキベクトルとにんじんスープベクトルも線形従属です。

*3:この辺わからなくて困っているんですけど、ユークリッド空間と数ベクトル空間(たとえば(2,1,0)とかのn個の数の組の集合)は(同型だろうけど)まったくおなじ概念ではなく、数ベクトル空間と座標空間は同じ概念と見做してよいのですかね?? とりあえず見做させてください

*4:体:普通の(順番を変えたり複数回おこなっても答えが変わらない)足し算と掛け算ができて、その答えも自らのうちに含む数の集合のこと。当座の理解では私たちが知ってる数だと思って大丈夫です。つまり掛け算足し算はあたりまえでなくて、それが普通じゃないものについても想定しているわけですよね。数学のこういうところさいこーじゃないですか?そうやっていろんなことが自明じゃないかもしれないってやるから定義の文章とかがややこしくなるんですが……

*5:ℝ:実数real numberの記号

*6:ℂ:複素数complex numberの記号

*7:∈:含まれる、という記号。ここではa,b,cがVという集合の要素であることを示す

*8:数学の記号に太字が出てきたら、ベクトルを表している。これは数字のゼロではなくて、ゼロベクトルの意味

*9:正直ベクトルって最初は大きさと向きを持った有向線分だって習った気がしますし、行列とか関数とか普通ベクトルと思わないものもベクトルになってしまうので私はちょっと混乱しています。でも、こういう名前の付け方は「幸福な同一視」と先生は言っていて、たしかに同じように扱って議論できるようになるということでは便利なんですかね。

歌会で何を話すか

 一般的に、関西の歌会は修辞重視で、関東の歌会はイメージング重視だ、みたいな話がある。なんとなくそうなのかも知れないな、と思うときもあるし、血液型占いとかの適当な占いの言葉みたいに、言われてみればそんな感じに思えてくる、程度の話なのかもしれない。

 ともかく私は、歌会では、どこの言葉がどのように働いていて、それによってその歌がどんな風に読めるか、ということを話すのが一つの誠実さだと思っている(その歌が一番よくなる読みを探るとか、他にもたくさんの誠実さがあると思う)。それは私がしてもらえたら助かる、と思うのがそういう批評だからで、自分の歌が人からどう読まれるのかは自分じゃ見えないし、技術的な問題として何をどうすることによって歌が良くなったり良くなくなったりするのか分かりたいからだ。では実際にそういう分析を極めたところでいい歌を作る方法論、みたいなものに至るか、というとそうでもなさそうだし、論理的・分析的な批評をしたいというのは無限への大いなる挑戦みたいなところはあるのだけれど……

 そして、歌からずっと脱線して自分の話をするタイプの評について、自分の話をしたいだけなのでは?よそでやってくれ、ぐらいの気持ちが正直あったのだけれど、ちょっとそれがただそういうことでもないなと思ってきた。

 

mess-y.com

このようなくつろいだ環境で行われる議論は、文体分析などよりも、むしろある本が読者の人生とどう結びつくかについてのものになりやすいようです。(中略)自分の人生や性格に結びつけた意見交換を行うことで女性たちの間に連帯感が生まれ、悩みのシェアや助け合いにつながることもあります。母と娘で親子のイベントとして議論に参加したり、友人同士で絆を深めたりする機能もあるのです。

 タイトルがまあ不愉快なんだけど、読んで、自分の話をしていくという作品との出会い方があるし必要とされていたってことが腑に落ちた。考えてみれば、文学作品を読んでいくっていうのは、この下の句のパンチ力がすごい、とか助詞が「は」であることによって歌がかがやいている!とかそういうのだけじゃなくて、作品世界を人生のバリエーションというかある種の拡張みたいなものとして経験するところがあるし、それを作品の中だけでなくて、読者側にもどして考えるというのは当然あるものだよなあ。そんなこともちゃんと分かってなかったのかという話ではあるけど、私は基本的に論理と知識と習慣しか信じられるものがないと思っているところがあるので仕方がない。

 じゃあ歌会で、歌からどんどん好きな方へ話をそらしていってもいいとは思わないけれど、人間の共感や経験というものを、無条件に排除しなくてはいけないと考えるのは普通に違ってた。最初に私はこういう批評が誠実さなんじゃないか、みたいなことを書いたけど、それも本当にそうなのか考え続けないといけない。歌会にいっても、いい批評ができなくて帰ってしゅんとしてしまうことばっかりだ。

 

 

 何回か読み直して、リンクの記事自体にはけっこう不満になってきた。この記事はエマ・ワトソンフェミニズムの読書会がって導入から、昔は女性が読書会をする文化があってね、って流れで、

 バーナデットは読書会に男性を入れたくないと主張しており、以下のようにずいぶん手厳しい発言もします。

「男性が入ると、力関係がくずれてしまうわ。男性って、みんなで楽しく議論しないうえ、偉そうに一方的にしゃべるんですもの。自分の持ち時間なんか無視して、平気でいつまでもしゃべってるわ」(p. 10)

 って『ジェイン・オースティンの読書会』という本を引用して紹介していくんだけど、“男性は理論的”っていう固定観念はなんかそのままにされてると思う。

 

もちろん理屈っぽい批評をする人は女性にもいますし(私ですね)、また理屈っぽい批評が嫌いな男性読者も山ほどいるはずです。しかしながら女性の前でやたら威張りたがる男性に対して経験から警戒心を持っている女性は多いので、女性だけで本を読みたいという人もいるのでしょう。

 筆者もこういうことは言ってるけど、題に男性は理論的で女性は感情的みたいな話をナチュラルに持ってくるのってだめじゃない?? 過去そういうふうに読書会があったんですよ、とするのはともかく、現在のエマ・ワトソンの読書会の話までしておいたのに、旧来の男性排除的なフェミニズムっぽい落とし所にされていると思ったし、それはよくないと思った。

 

 

11/13未明

最初のバージョン

11/13午後 

深夜にがーって書いて投稿したのであまりにも文の係り結びが悪いところをやや直しました。