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稀風社『誰にもわからない短歌入門』に入門する

短歌

 『誰にもわからない短歌入門』(以下『誰短』)を先週葉ね文庫へ駆けこんで買ってきました。

 

 宣伝されていたように、短歌と短歌?なものたちへの一首評の本。そして入門書。

 三上春海さんと鈴木ちはねさんが往復書簡形式で評をしているので、一つの歌に二人の評が読める。山田航と穂村弘の『世界中が夕焼け』みたいな。いや、『誰短』では評のリレーが歌を越えてつながっているからだいぶ性質が違った。あわのさんがツイートしていたけれども、二人で応答を重ねながら書かれている、ということがとてもよくて、この本を磁場のようなものにしている。いま稀風社のブログを見たら、

1.「これは」とおもう歌を選んで相手にメールで送る
2.600字から1200字程度の評を書いて送り返してもらう
  このとき評とともに次に扱う歌を送ってもらう
3.評をもらい次第その評も含めたうえで自分の評を書く
4.送ってもらった歌の評を書いて相手に送り返す
  このとき評とともに相手に次に扱いたい歌を送る
5.これを約10ヶ月にわたってくり返す

 って書いてあって、えっ、企画の形式と持続性がめっちゃすごくないですか、って思ったりしました。

 

 まず、伊丹小夜さんの表紙が、元々ついったーで見たことのある人で、立体的な平面性というのか、すごく立体的に物を把握しているのに平たいパーツにして描いてあるといった雰囲気で、ジャケ買いさせるぞ~みたいなものを感じた。超個人的には、旧そうな制服とか、二人に入っている朱の色が違うとか机に縄跳びかなんか掛かってんなあ、みたいなのによさを感じる。

 本文を読んでいくと、すごくいい読みだなあ、とかちょっとそうは思わないけど、とかあってすごく楽しい。けれど、『誰短』が特徴的なのはその読みそれぞれではなくて、読みと切り離せない、全体の中での歌の位置取りや評をする立場の確認みたいなもの、そしてある種信仰に近いような思想がしっかり表明されていること、二人がお互いやいままでの評の流れを受けつつ話を進めていることなんじゃないか、とか。

 ブログで公開されていた試し読みや、文フリに行ってきた人の戦利品で好きな歌の評だけ見せてもらっていた時はただのいい一首評の本だったんだけど、最初から読んでいくと二人のやりとりの中で啓蒙されてしまいそうな気すらする。

 この感覚は少しデジャビュがあって、それは、きょうたんに入って短歌を始めた頃。歌会での評や、歌会後ごはんとかツイッターとかで話される主義主張とか、私の最初期の短歌的価値観は全部きょうたんの人々から型取ってきた、と言うのも全く過言ではない。そういった、場のエネルギーみたいなものが『誰短』の中からあふれている、と思った。

 啓蒙されるのは楽しい、これは勉強するときの楽しさに似ている。でも、それだけでは怠惰だしつまらなさにも通じる、すごく当たり前のことなのに上手く書けなくて困っているのだけれど、ちょっとだめだよね、というのは分かってもらえると思う。この一年とちょっとの間の私の悩みは、いかにきょうたんの人たちの影響を影響と自覚して咀嚼するか、自分で自分の道を開くかということで、これもやっぱり勉強するときの何かに似ているように思ってきたけど、まだまだ未解決問題だなあ。とはいえ私は知識があること、勉強することを価値があることだと思っている、劣等感の裏返しなのかもしれない、ので啓蒙してもらえるときにはじゃんじゃかしてもらおうと思います。

 

 メモ:

評の説得力として、文体やフレーズの力がものすごいと思った。

笹井宏之さんへの一首評で、鈴木さんが修辞を丁寧に分析してから、「深いところに通底する作為への抵抗感」って述べていたのが、苦手な歌への表明の仕方としてめっちゃよかった。

石井さんの文章、「三万円――石井僚一短歌賞創設にあたって」っていうタイトルも「その歌の作者に僕の三万円をあげたいかどうか。気持ちの良い自腹になるといいな。」っていうのも最高。

 

15/12/11

評論がこれよりは字数が増えた、まだまだなのに疲れたのと、書いてなかったことがあったので追記。

『誰短』を読んでいて、この本めちゃくちゃ想定読者層がせまいのでは?そこにしっかりはまっちゃったのでは?っていう思いや、短歌に特に触れてないけど文章に興味がある人もたのしいだろう、という思いがあって、要するに何だか普通の短歌同人誌と射程がちがうなあ、という以上のことは分からなかったんだけど。

みんないいと思うだろうな、ではなくて、これを推しているのは私だけだって読者に思わせるのがいい作品だ、みたいなことをやぶうちさんか誰か(ほんとうにおぼろげ)が書いてたと思うんだけどそういうあれですかね。そしてこの言葉はいつの誰のだったのかしら…