真鍋美恵子『羊歯は萠えゐん』

 昨日は月と六百円*1で真鍋美恵子第六歌集『羊歯は萠えゐん』(1970)を読んだ。

 真鍋美恵子(1906-1994)は、葛原妙子(1907-1985)と同年代で、以前の月と六百円で真鍋の『玻璃』を扱ったときにも葛原や森岡貞香(1916-2009)との関係も話に上がった。

 

八月のまひる音なきときありて瀑布のごとくかがやく階段

ざくろの実にふかき亀裂はれたらん夜の明け方を星座燃ゆれば

 八月の日光にたちくらむような一瞬をイメージした。音のないその一瞬に、階段が瀑布のごとくかがやいて見える。感覚が視覚に集中されて、階段のかがやきが強く押し出される。 

 二首目。倒置になっていると思ったので、明け方に星座が燃えているので/と、ざくろの実に亀裂は生まれているだろう、という因果関係や時系列的な提示だろうか。ざくろの実深くの赤と星座燃ゆ、という意味からの景ではなくて、語彙レベルの赤いイメージが冬の澄みとおった明け方において結ばれている。

 しかし、これらの歌、特に二首目は真鍋の歌として挙げるのに適切かというとそうではない気がする。歌集を通読して受けるのは、物事が凝視のあまり歪んでいくような、混沌を増していくような印象だ。

濡れし旗落ちたるやうなひびきして朽ちし引けば朽ちし扉しまりつ

固定せるもののはげしさ地下底にコンクリの柱くろぐろと立つ

  意味としては当たり前のことがリフレインされたり、固定されて一般には静的、と見えるものにはげしさが見出されている。永田和宏は、多用されるリフレインについて「自明の足場のゆらぎ」と述べているが、それはコンクリの柱のはげしさや(避雷針がかわいているという歌もあった)、連作の中で、ひとつの対象物を繰り返し繰り返し詠む執拗さにおいてもそうだと思う。私たちが普段当たり前や自明だと思って過ごしていることへ、言及を重ねたり、それを成り立たしめている力を見出したりされている。そこから世界の自明でなさや、歪みのようなものが感じられる。

 

 そして、『羊歯は萠えゐん』を読んでいて感じたことは、作者自身の情報や感情へ言及がなされないこと・歌の作為・構図が見えないことだ。作者についてはほとんど何も触れていなくて、作者が64歳のときの歌集だというのにすこし驚くぐらいだ。数多く直喩が使われているが、

セメントのにほふ地下駅葱の束解きたるがごと若者らゐる

鉄材置場におびただしき鉄積まれゐて酢のごとく青き夜が来てゐる

なんかは、めちゃくちゃ的を射た喩を目指しているわけでも、比喩表現の側から象徴的なイメージを重ねたいわけでもないように思われる。歌の中でいくつかの要素が因果関係や並列関係で示されるものも多いけれど、どうも一首の中のそのつながりがきまっている、もしくはそこから作者の感情が読める、ということができない。「サービス精神でない作り方」という発言もあったけれど、本当にそうだと思う。

びつしよりと樹液に濡れしを踏みて猫ゆけりそのけものの清さ

目を病みて人は眠れり人参の畑にべつたりと空ある夕べ

まつ白き鉄塔が見ゆ酢の壜を割りたれば強く酢のにほふ窓

 単に適当にずらして面白がっているだけなんじゃないの?と感じてもよさそうなのだが、何か構図や感情を示したいのではなさそうだし、必然性のあるものとして説得されてしまう。秀歌性ではないのだけど、歌と歌われているものとが互いにはみ出し合いながら私たちの受け止め方を重くしている気がする。

音みちて雪はふりをり対ひゐる人に眼帯の翳ふかくなる

 

 勉強会では、めちゃいい歌集だっていう人もけっこういたけど、私はまだそこまで読みこなせていない。読んでいるうちに、私の〈葛原妙子イメージ〉が段々接近してきた気がするし、この時代の歌集を将来的にもっと消化できるかな。

 

 

*1:塔の事務所での勉強会、塔の会員でなくても参加している