洞田明子の〈私〉

 中野サンプラザに行くときはほとんど、カフェオレのせいでお腹の調子が悪くなっている気がする。2月25日の洞田の批評会に行って、すごく面白かったので、その会の話の部分や私が考えたことの話をします。
 (以下発言と書きつつ誰のと明示しないものはみんな)発言者があいまい(すみません)だけど、『洞田』についてコンセプチュアルだとか、実験的だとかいう話が出ていた。
 私もこれは問題提起や考察が明示されていない実験で、これをいろんな向きで切っていろんな議論ができるのではないかっていう可能性にすごくわくわくした。でも斉藤斎藤さん(や他のパネルさんも?)実験の目的が示されていないことに対して否定的な立場で、その点や、歌集批評会という制度において『洞田』を扱う点やその他についてひっかかってはるようだった。批評会を聞いて反省したことは後述します。

 確かに論文だったら序論の問題提起や考察は大事なので、実際に問題提起→実験→考察、みたいな形式のなかで洞田を考えてみたい。

 実験系の論文の形式にあてはめてみよう!(耳学問だけど) 実験系の論文の形式をいくつか検索して(こういうのを見た)

http://tyamlab.web.fc2.com/tips/writing.html
http://wakate-lab.sho.geo.jp/hp/3-2.shtml

いわゆるIMRAD型というのに従う。以下にやってみたのはひとつの例という感じで、他にもいっぱい問題提起や考察のしかたがあるはず、夢が広がる。


やってみた
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論文タイトル: 歌集『洞田』に基づく短歌の文脈についての考察

要旨(省略)

序論(introduction)

短歌の一首は、場(とは?)によってどのような読まれ方をするのか? 〈私性〉(とは?)はどのように歌の読みを左右するのか?

特に短歌連作や歌集の中での一首の読みと作品全体や作者(とは?)との関係において

特に先行研究(とここでは呼ぼう)には、瀬戸夏子さんの『町』の中での、自作と引用歌を交互にとりまぜた作品*1や、歌集『町』など。特に前者では、引用歌が瀬戸さんの歌の磁場に引き込まれた感じがした。後者については、技術点*2がそろっている(堂園さん)などの発言

方法(methods)

テーマ詠「駅」の募集

集まった歌を落とさず変えず、短歌同名ユニット太朗が編集(詞書は任意に付与)して配列する

洞田明子歌集『洞田』へ

Ⅰ部は詞書きを多用し、性別、来歴、属性の提示、Ⅱ部はトポスをそろえること(??わたしは言われたことが理解できていない)、Ⅲ部は文体的な統一性からの〈私〉像の構築(これら大辻さんせいり)

結果(results)

A. 一首取り出すと/作者名と一緒に見るといい歌なのに、歌集中ではその魅力が削がれている歌がある

B. Ⅰ部は属性が分かるけど、Ⅲ部とかのほうが〈私〉がいそうな感じがする(という発言)

考察(discussion)

A →短歌一首を読むには文脈(とは? 作品を読むときに持ってくる作品以外のもの、とざっくりしよう、背景とも)が重要。連作や〈私〉像はその文脈を作る。

 出てくる事件や出来事があれねっていうのもあるだろうけど、文脈や背景が特に大事なのは、どういう抒情なのか、みたいなのが分かる。加藤克巳や森岡貞香や高瀬一誌のような作風をその人の歌と知らずに読むのは難しい(というかわたしはできる気がしない)。他にも竹山広のフセイン像をたたく少年の歌みたいな感情をどう読み込むか、どのような感情がこもっている(と読める)のか、みたいなのも。

短歌の文脈を作る二つの要素

・作品の範囲
基本/最小単位としての一首
歌たちの表題と配列
連作や歌集、ある創作者が発表したすべての歌(全歌集)
ある創作者の歌と散文の時系列的配列を含むすべての集合(全集とか?)

・作者の範囲
作品の発表された時代
作品の作り手の実人生
属性、経験、心情


 この二つの文脈的要素(独立ではない)が短歌の私性で、それをどのように補給して読むのかが私性の問題系(と定義すると議論しやすいと思うんだけどどうかなあ)。

B→私性というと、最近は後者の方が取沙汰されてきたけど前者(これを私性に入れるかどうかの議論はあると思うけど)がけっこう大事なのでは?

 すると、一首単独で素晴らしい歌ってあるのか?あったとしたらそれは、文脈が読者の手持ちのものですぐおっけーだった場合??

 作者の実人生や、アルターエゴみたいなことをしない場合でも、私性(という言葉を使わないなら作品の文脈や背景)はすっごく大事なのでは?

 エッセイと比べたら作品の修辞とか独立性があるのに、小説と比べたら作者まで作品に必要な文脈になってしまうのが短歌

 なぜか。佐佐木幸綱やカミハルさんの言うように短歌がうただったからというだけで説明できるのか(その議論、きれいに整理される感じがして好きではあるけど)。歴史的背景とだけ言ってしまっていいのか。連歌・俳句との比較……?
 個々人がある作品に対してどのように作者の文脈の範囲を考えるのかという問題。個人の考えと共同体の考えとはどういうふうに? 批評や歌壇の役割はここにあるのだろうか? なんか脱線してきた……

結論

 短歌一首を読むに当たっては、連作や作者の情報(それは実人生でなくても作風とかその作者のやろうとしてることとか)が重要になる。

 一般に〈私〉像と言われているものは、作者の性別・年齢・職業なんてものではなく、いわゆる文体とかなのではないか

残された課題
先行研究の検討不足、問題の絞りが甘い、結果と考察にちょっと飛躍がある(わたしが勝手に急ごしらえの問題提起と考察をつけたしてみたんだから当然である)

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 こういう感じの議論がめっちゃ作れそうで、洞田の実験性!!みたいなことにわたしはテンションをあげていたけれど、批評会を聞いていろいろ誠実でなかったなあと反省しました。まず第一に、これまでのわたしの議論って太朗が歌を集めて配列するというその発想をおもしろがるところに終始してて、洞田のコンセプトしか見てないというか、じゃあ歌集のなかみはどうでもよかったのか、とか、この歌集が洞田明子歌集であることの洞田明子というたった一人の顔はどうなってるのかということを無視していて洞田明子(たち)に対してなんか失礼だったと思った。

 実際に、わたしが思った洞田明子いそうって気持ちは駅アンソロジー対洞田明子歌集、ぐらいの荒い目盛りでやってたものだし、どこかで歌を集めてきたものだしなって一首一首をしっかり読むことをしていなかった。読みづらいとか、本当に一人の姿が出てきているか?とか、失敗しているのでは?っていう議論を聞いて(花山周子さんの洞田明子はこの歌ってできるいい歌がないでしょっていう話とか印象的)、全然ちゃんと読んでなかったなあって分かったし、太朗レベルの、実験性ばかりおもしろがって、洞田明子の作品を作品として扱ってなかった……
 第二に、歌集批評会というものについての認識の雑さがあって、読書会とかとは違って、洞田明子の作った歌集を議論する批評会なんだよなあということ。これはパネリストの、どれだけ批評しても相手がいなくてやりづらい、みたいな話を聞いて(それをだいぶ頭のなかでころがして)はじめてそうか~って思った 。
 それに、歌を送った人たちは、自分の作品がこういうふうに〈私〉を剥奪された形で怒らないのか?って話が出てきて、私も洞田明子なんだけど、そういうことを遠くにうっちゃって実験だ!!めっちゃおもろいやん!!ってなってて作品に対して不誠実でごめんなさいだった。

 花山さんが最後の方で作者論と読者論の話をしていたの、ちゃんと分かれなかったんだけど聞いとけばよかった。読者論たのしいってところからもう少し何か考えてみなきゃなのかも。

 いやでもわたしが一般論とか読者論に興味があるだけかもしれないけどすごい面白い実験という要素はあると思ってます。これは短歌さま(短歌さまは二次会の吉岡さん談話)を神棚にのせたままにしないで云々しようとする態度だけど、短歌さまを神棚にのせただけで満足するのもったいないやん、ってきもちが私にはあるので…… この実験からものすごい切れ味のいいことが言えるかもしれないし、勝手な持ってき方をして恣意的な結論に行ってしまうこともありうるような気がする。

この文章は批評会であった話の完全な再構成ではないけど、いくつか印象に残った話のメモ(後半のパネルディスカッション、発言者より内容優先でメモしていたので誰の話か(この人かも、というのはあるけど)分からなくなっちゃった:情報求)

・一人の作者が作った歌ですってされるとこの人はこういう人かって思うのに、洞田/戸綿とされるとこの歌はこの分類されてるけど作者は男/女じゃない?みたいな気持ちになってしまう。

・女と男や場所など、既知のものをてこにして未知のものを手渡すしかない、その害
→ 一人の(肉体を持った?)人という枠をはずす、形式としてはポストモダンなのに、内容としてはプレモダンになっている

 すべての洞田明子さんとパネリストさんと太朗のおふたりと今日会った人たちのおかげでこんなに楽しいです。ありがとうございます。


2017/3/3
誤字の修正、脚注の追加

*1:誰かこの話をしたり比較をしたりしてほしかった

*2:洞田のなかの各歌の技術点のばらつきという斉藤斎藤さんの話を受けてのはなし