山口謠司『日本語を作った男:上田万年とその時代』

 今の私たちが使っている日本語の書き言葉は、明治時代後半の言文一致運動にその一つの源流がある。これは、「自然に変化してこうなったものではなく、「作られた」日本語である」。タイトルにある上田万年(1867(慶応3年)ー1937(昭和12年))は、その時代に東大の博語学(いまでいう言語学)の教授として、言文一致をしようとした人だ。結局これは挫折して、「現代かなづかい」の告示は戦後まで待たなくていけないのだが。この本は、上田万年の時代の歴史的・文化的なことについてや、同時代の人物たちの活動を群像的に書いていっている。
 知らなかったことがいっぱいあって、しかもそれが大きな全体像を構成していて、とてもおもしろかった。全体像の話をするのはむずかしいだろうけど、面白かった話をいくつか紹介してみたい。

 

 

 上田万年は慶応3(1867)年に生まれる。大政奉還が行われて明治新政府が成立した年だ。ちなみにこの年には、夏目漱石正岡子規幸田露伴南方熊楠なども生まれている。
 明治政府は、欧州列強に追いつこうと、中央集権的な近代国家を確立させようとしていたし、江戸以前の文化をなかったものとしたかった。大学に入るためには英語を習得していなければならず、帝国大学での授業はすべて英語だったという。当時博士になるにはどの専門分野でも留学が必須で、留学によって外国の知識を国に持ち帰るという流れだった。帝国大学の学生というのは、日本の中でもほんの一握りのエリートだったのだ。また、新島襄(1843ー1890)や内村鑑三(1861ー1930)は、「日本語を話すことはできても、ほとんど日本語で書かれたものを読解することができず、英訳本か、本を読んでもらうことでようやく耳から理解していた」と触れられていて驚く。このような時代のなかで、例えば森有礼は英語を日本の公用語にすることを主張するし、そこまで急進的でなくても、日本語をローマ字で書こうという論(西周)や、漢字を廃止しよう(前島密)などの議論が明治6年(1873年)頃から主張されてくる。

 日本語をどのように文章にするのか、という問題には、様々な論点がある。漢字や仮名、そしてローマ字という表記の問題。そもそも、発音されている音のすべてをかなで表すことができるのか、という表音の問題*1も含まれるだろう。そして、文語文と口語文という表現の問題だ。文語文というのは、例えば漢文や漢文訓読体、もっと私的なものでは候文などである。それぞれ例として引用されているものがあるので見てみよう。

朕深ク世界ノ大勢ト帝国ノ現状トニ鑑ミ非常ノ措置ヲ以テ時局ヲ収拾セムト欲シ茲ニ忠良ナル爾臣民ニ告ク 朕ハ帝国政府ヲシテ米英支蘇四国ニ対シ其ノ共同宣言ヲ受諾スル旨通告セシメタリ

 第二次世界大戦終結までは、公式文書はすべて漢文または漢文訓読体であったという。玉音放送は最もよく知られているところであろう。原文は、漢学者・川田瑞穂によって書かれ、陽明学者・安岡正篤によって添削されたということだ。誰でも使いこなせる文体ではなかった。

今朝は風はげしう候て北に向きたるは窓さえ明けがたきように御座候(ござそうろう)都のうちさえ此(この)ようのさむさなるをまして山おろしいかばかりか父母ともどもお案じ申上御様子(ごようす)承(うけたまわる)るべしと語りあい居(をり)候に

 これは樋口一葉が博文館から依頼されて執筆した『通俗書簡文』(1986)の抜粋ということだ。題名に「通俗」とあるけれど、みんなこういう文体で私信をやりとりしていたということなのだろうか。

 

 このような中で、明治初期には、まず日本語をひらがなだけで、あるいはローマ字だけで書いていこうという、表記における運動が活発になる。物集高見という人物の、『かなのしをり』(1884(M4))という本の文章が引用されているので見てみよう*2

よろづ の くに おほかた この くに の ことば この くに の もじ を もて よろづ の もの を よび ちぢ の こと を しるせり、かの 二十六 の こゑ 二十六 の もじ を もて よろづ の もの を しるせる くに も 五十 の こゑ 五十 の もじ を もて ちぢ の こと を しるせる くに も とも に ひと の くに も もじ を かる こと なし、わが みくに も また 五十 の こゑ 五十 の もじ ありて よろづ の もの を よび ちぢ の こと を しるさば ひと の くに も もじ は かる べく も あらぬ を

漢字かな混じり文が当たり前だと思ってる身からはだいぶ目が泳いでしんどい。
ひらがな分かちや、ローマ字表記という文体からなんとなく土岐哀果(善麿)(1885ー1979)の『NAKIWARAI』(1910)や會津八一(1881-1956)の歌が思い出される。小高賢『近代短歌の鑑賞77』を参照すると、哀果のほうは時代的な動きに応じたものだったようだ*3が、八一のほうはそれとは違うところの理由からくる文体選択だった様子*4だ。

 本書の話に戻って、明治前半までは、覚えるのに時間のかかる漢字を廃し、日本語のひらがな表記や、ローマ字表記へと教育を変えようという議論が主に行われていたとまとめられるだろう。


 いま漢字仮名混じり文を当たり前にしていると、こういった主張に対してそんなむちゃくちゃな、という気持ちにならなくもないけれど、世界でも文字表記の改革は行われている。朝鮮半島では1948年に「ハングル専用に関する法律」が、韓国では1970年に漢字廃止宣言が発表されている。また、トルコでも1928年アラビア文字が全廃されて、ラテン文字が採用されるようになったし、モンゴルでも1941年にモンゴル文字を廃止し、キリル文字によって言文一致の表記が行われるようになったという。私は現代日本語が今のような形で現代日本語となったところに暮らしてきているだけで、そうでないものが当たり前になったところを想像するのは難しいけれど、今ではないしかたの日本語が標準であってもおかしくなかったのか、と思われる。


 さて、東京大学で博語学を学び、ベルリン大学へと留学した上田万年は、1894(明治27)年に帰国する。この年万年は「国語と国家と」という演題で講演を行っている。

日本の如きは、殊に一家族の発達して一人民となり、一人民発達して一国民となり者にて、神皇蕃別(じんのうばんべつ)の名はあるものの、実は今日となりては、凡(すべ)て此等を鎔化(ようか)し去(さり)たるなり。こは実に国家の一大慶事にして、一朝事あるの秋(とき)に当たり、われわれ日本国民が協同の運動をなし得るは主としてその忠君愛国の大和魂と、この一国一般の言語とを有(も)つ、大和民族あるに拠(よ)りてなり。故に予輩(よはい)の義務として、この言語の一致と、人種の一致とをば、帝国の歴史と共に、一歩も其方向よりあやまり退かしめざる様(よう)勉めざるべからう。かく勉めざるものは日本人民を愛する仁者(じんしゃ)にあらず、日本帝国を守る勇者にあらず、まして東洋の未来を談ずるに足る智者にはゆめあらざるなり。

(中略)

故に(中略)偉大の国民は、(中略)情の上より其自国語を愛し、理(ことわり)の上より其保護改良に従事し、而して後此上に確固たる国家教育を敷設(ふせつ)す。こはいうまでもなく、苟(いやしく)も国家教育が、かの博愛教育或いは宗教教育とは事替わり、国家の観念上より其一員たるに愧(は)じざる人物養成を以て目的とする者たる以上は、そは先ず其国の言語、次に其国の歴史、この二をないがしろにして、決して其功を見ること能(あた)わざればなり。


日本人という単一民族の統合として戴かれている日本語、という言語観が示され、帝国主義政策の中での国語政策の必要性が説かれている。この考え方の基本には、比較言語学・比較宗教学の学者であるマックス・ミュラーの影響があるという。さかのぼれば同系統の言語を用いていることが明らかになったインド人とヨーロッパ人とを、ミュラーはあわせて「アーリア人」と呼び、アーリア人種の優位性を強調する思想を説いた。万年の講演や思想も、そのような帝国主義的時代の潮流のもとにあった。


 帝国大学*5教授に就任し、のちに文部省学務局長兼文部相参与官にも就任した万年は、国家のなかで統一的な国語を制定するために奔走していく。彼は、国語を上流階級や専門家だけでなく広く一般のものにするためには、表記としても、表現としても言文一致が必要だと考える。例えば明治30(1897)年1月の講演「国語会議に就きて」に万年の主張がみえる。万年は、方言による発音の違い、長音記号の使用や歴史的仮名遣*6について触れながら、仮名遣いを発音に基づき、国家の中で統一したものとすること(そしてそのための組織として国語会議をもうけること)を主張した。明治33(1900)年、文部省は「読書作文習字を国語の一科にまとめ、仮名字体・字音仮名遣いを定め、尋常小学校に使用すべきかんじを千二百字に制限」し、「仮名遣いの一定として変体仮名を廃止し、字音仮名遣いを改正する(表音式に改め、長音符号を採用する)こと」を決定する。これを受けて、「棒引き字音仮名遣い」*7と呼ばれる新しい表記スタイルの教科書が登場した。

お花は、為吉と云ふ人形を、ふとんの上にねかして、片手で、其のはらをさすって居ます。是は人形が、病気にかかったと云って、かんびょーのまねをして居るのでございます。(中略)
お花「為吉は、昨夜より、腹が大そーいたむと申してないてばかり居ます。」

兄モ、弟モ、一ネンジュー、ヨクベンンキョーイタシマシタ。(中略)父母ハ、二人ノコドモニベンキョーノホービダトイッテウツクシイヱヲ一マイヅツヤリマシタ。
(金港堂『尋常国語読本』1900)

とはいえここで発音と一致しているのは、長音部分についてのみで、「云ふ」であったり、助詞の「を」などについてはそのままになっている。万年や、その弟子である芳賀矢一らは、文部省内に設置された「国語調査委員会」でさらに調査を進め、明治41(1908)年には、発音主義の改訂仮名遣いが施行される予定となっていた。しかしその新仮名遣いは文部省参事官岡田良平や、枢密院や貴族院の反対者、鷗外などによって覆されてしまう。新仮名遣いの制定は、戦後の1946年11月内閣訓令第8号,内閣告示33号「現代かなづかい」まで持ちこされたのだった。


 この本では他にも、徳富蘇峰の『国民の友』や、当時の出版業界の話、森鷗外坪内逍遙高山樗牛と繰り広げた論争、19世紀ヨーロッパ言語学の展開、そしてグリムの法則とそれが日本語でも成立することを示した「P音考」等々、近代史・文学史言語学にわたるいろいろな話が登場する。はじめて聞く話と聞いたことのある話とが渾然としていくのも面白くて、世の中には永遠に勉強することがあるな、という気持ちになる。あちこちを照らされることで、すごく大きなもののその大きさが一瞬垣間見せられるような読み味だった。(その分個々の出来事がどう進行しているのかつぶさについていくのはちょっと難しいかった。)私の知っているような本では、照らせる範囲のものを対象に、それをじーっと見たり、論理や時系列にそって追いかけていくようなものが多かったので、もっとこの手の大きな話をする本も読んでいけたらいいなと思う。


 ところで最近、こんなホームページを見つけた。(見つけたはみつけたものの、ページがたくさんありすぎてそんなに探索はできていない)

文化庁 | 国語施策・日本語教育 | 国語施策情報

この文化庁の国語施策情報には、この本で取り上げられてきた審議会の資料や、本当に新仮名遣いが決定された戦後の国語審議会の議事録もあって、内容も審議会の文体もなんかおもしろい。

*1:例えば、「が」は江戸では鼻濁音的な発音がされるが、東北ではそうではない、など

*2:本の内容紹介と共に引用しているものはみんな孫引きです

*3:第一歌集としての『NAKIWARAI』(明治四十三年)は、ロマンチックな感傷性の上に、覚めた現実認識を示している。またこの歌集は、ヘボン式ローマ字綴りによるもので、長くローマ字運動に携わる善麿の初志が反映されてもいる。(小高賢『近代短歌の鑑賞77』)

*4:八一のひらがな、分かち書きのスタイルは、最初からのものではない。・・・・・・掲載歌のような表記がとられたのは、二十六年の『会津八一全集』からである。その「例言」に八一は、
 いやしくも日本語にて歌を詠まんほどのものが、音声を以て耳より聴取するに最も便利なるべき仮名書きを疎んずるの風あるを見て、解しがたしとするものなり。欧米の詩のいはば仮名書きにあらずや。
と述べ、また「一字一字の間隔を均一にせば、欧亜諸国の文章よりも、遙かに読み下しにく」いので分かち書きの方法を取ったとしている。(小高賢『近代短歌の鑑賞77』)

*5:東京大学のこと。1886ー97までの名称

*6:万年の発言中には「歴史的仮名遣い」という用語は用いられていない。万年の表現を用いるならば、仮字遣には国語仮字遣、字音仮字遣、訳語仮字遣があり、前者二つが歴史的主義、訳語仮字遣のみが音韻的主義による、ということだ。

*7:この表記や、「は」や「を」も発音通りに表記された文章などを見ると、現代の仮名遣いも別に完全に発音通りにやってる訳ではないよなあというのがよく分かる