じぶんの信じるものはじぶんで決める

 初出:『八雁』2018年1月 通巻37号 ――『八雁』第三十六号渡辺幸一時評に反論して

 

 十一月号の渡辺幸一「形式と韻律の力を信じて」について、『短歌往来』八月号「30代歌人の現在」には「大きな不満が残った」のに対し、小佐野彈「無垢な日本で」は「意欲的な連作」として肯定的な評価ができる、という論旨であると読んだ。しかし筆者はこの双方に異なる意見をもっているため、ここで述べたいと思う。

 第一に、「30代歌人の現在」には、いくつもの心惹かれる作品があった。この特集には、三十二名の十二首連作が掲載されている。そのなかの三つの連作をとりあげる。

 

      夏草や兵どもが夢の跡

遊園地の跡地きれいな墓地となりきれいな五月雨に濡れてゐる(石川美南「夏草(LANDその13)」)

 

 石川美南の「夏草(LANDその13)」は、「夏草や兵どもが夢の跡」の日・英自動翻訳の繰り返しを重ねたものを各歌の詞書きとしている。英語にされ、再度日本語にもどされることで次々に展開する詞書きの変化が単純におもしろい。そして、これらの詞書きと併走して、歌では、誰もいない草地、兵士、夢といったイメージが重ねられている。

 

        夏の草と兵士の夢の中で夢

夜になると生えてくるのよ 灯台は光から鹿たちは脚から

        夏の芝生と兵士は決してない

パラシュート花とひらけど夢のうちへゆめゆめ兵を招いてはならぬ

        夏草に芝や兵士はいないでしょう

部屋に花/死ぬのは怖くないと祖父/江戸まで続くゆるい坂道

 

 一首目、光を起点にして灯台が生えるという把握が鮮やかであり、脚から生える鹿たちのイメージが不気味かつ美しく強められる。このような幻想性もありながら、二首目や三首目は領域が空にまで拡大した、二〇世紀以降の戦争のことを思わせる。いま三十代の人々の祖父とは、ちょうど太平洋戦争へ出征しなければならなかった世代だろう。三首目において、「死ぬのは怖くない」と述べる祖父のこれまでの生、そこからさらにさかのぼって大正、明治、江戸、と日本の近代化と帝国主義の時代が思われる、と言ったら読み過ぎだろうか。

 

信号のやすらかなまみ影ほどにながくなれたら触れにゆくのに(吉岡太朗「影ほどに」)

きみがきみの塔婆のように立っていて言葉ときもちしかつうじない

生きていても会うしかできないひとたちの墓参りとなにがちがうのだろう

  

 吉岡の連作に現れる人やものたちは、現実に根ざしながらも不思議な身体性を持っている。一首目では、「信号のまみ」、すなわち赤や青の点灯するランプやその周囲だろう。その光がやすらかになる頃合いと、影が長くなる頃合いとから、なんとなく夕暮れの風景が浮かぶ。影のようにながく伸びたからだで、信号の身体へ手を伸ばすというイメージにたいへん惹きつけられた。

 二首目の塔婆(卒塔婆)とは、「死者の供養や追善のために墓などに立てる細長い板(明鏡国語辞典)」である。自身を供養するものであるかのようにきみが立つという把握が魅力的だ。言葉と気持ちが通じたとしても、通じない何事かがあり、その到達不能性と、塔婆という語彙とには響き合うものがある。まさに人間が、モノのような存在として感じられてくる(〈きみ〉は人間ではない可能性も否定できないが)。この到達不能性についての認識は、その後三首目に来てふたたび繰り返される。

 

風に、ついてこいって言う。ちゃんとついてきた風にも、もう一度言う。(谷川由里子「夜空には貰いそびれたきびだんご」)

スカジャンの胸には鳥のワッペンをつけたらそれはあなたのものだ

走ったら汗がでてくるストレッチしてても汗があとからでるよ

月がいちばんポケットに入れたいものだなって月に聞かせてから寝る

 

 一首目は、〈風に、/ついてこいって言う。/ちゃんと/ついてきた風にも、/もう一度言う。〉のような句読点のリズムと「ちゃんと」という語を強調する韻律で読み下した。〈・・・ついてこいって言う。〉までで切って上の句と扱う韻律の感じ方もあるかもしれない。強い風に吹かれるときの高揚があると言ったらいいのだろうか。といってもそれは、物事の描写や状況設定などから〈私〉のあり方が照射されるものではない。そういった、いわゆる写生的なものだけが歌の到達点であると前提して作品を読もうとすると、大きな取りこぼしが生まれてしまうだろう。写生の手法がよいとか悪いということではなく、谷川の歌のコードが、私たちの見慣れたものとちょっと違っているだけなのだ。

 まわりの風への呼びかけは、直接的なものではなく、「言う」によって述べなおされている。また、一度ついてこいと言うだけではなく、「ついてきた風」という継続的な時間を捉え直してもう一度呼びかけが重ねられる。「ちゃんと」という語は、呼びかけに対して「ちゃんと」応じてくれた風という意味で用いられているのだろう。風への呼びかけは、ただ言ってみたというような言葉ではなく、本気の呼びかけなのだと思わされる。

 谷川の歌では、身近なものたちへ向けられた生な感覚が、観察や象徴的な落としどころ――これらは言語化される際にある一定の体系に組み込まれやすいものである――を逃れたかたちに差し出されている。本気でしゃべっている、と感じられるのもこのためだろう。二首目は、(おそらくあなたの)スカジャンに、もし鳥のワッペンをつけたなら、そのスカジャンも、スカジャン上のワッペンもあなたのものである。という風に解釈した。「胸に」ではなく「胸には」という助詞は、スカジャンやワッペンの存在をきわやかにしている。二首目や三首目で述べられているのは、真理条件的な意味としては当たり前の事柄だ。しかし、この本気さの文体が世界を肯定するとき、なにかが勇気づけられるのを感じる。

 四首目、先ほどの風においてもそうだったが、月というものが、すぐ近くの手でさわれるものたちと並列されるような遠近感で登場する。もっとも惹かれた歌だ。月をポケットに入れる、という不思議なイメージも魅力の一つだが、そのような突飛な話をする〈私〉についての歌というのではない。真実その気持ちを月に伝えて、月や自らを安心させて床につく、という一場面が示された歌として読んだ。その心配りが行われたことに、読者としての筆者も一緒に安らかな気持ちになるのだ。

 多くの歌を取り上げたため少し長くなってしまった。渡辺は「最近の若手歌人の中には新しい表現を生み出すことに気を奪われ、自分が本当は何を詠いたいか、あるいは何のために詠うのか明確に認識していない向きもあるようだ」と述べたが、まずは「言語感覚や表現方法の違い」について再考されたい。作歌において、個々人が信じるものは同じではなく、その必要もないのだ。

 もう一つの論点に移ろう。渡辺は小佐野彈「無垢な日本で」を「同性愛をテーマにした意欲的な連作」「社会的な批評を備え(中略)読者との間に対話を求めている」と評価しているが、筆者はこのすべてに同意しない。確認できた範囲では、野口あや子「貪欲な生を」『現代詩手帖』(二〇一七年一一月号)や、松村正直年間時評「分断を超えて」(歌壇二〇一七年一二月号)でもこの連作への言及がある。松村や野口、選考座談会においても、性的少数者の問題に取り組んだことが理由として本連作は評価されている。渡辺の引用した歌を読むことから出発しよう。

 

ママレモン香る朝焼け性別は柑橘類としておく いまは

ほんたうの差別について語らえば徐々に湿つてゆく白いシャツ

かげろふのやうにゆらりと飛びさうな続柄欄の「友人」の文字

どれほどの量の酸素に包まれて眠るふたりか 無垢な日本で

 

 一首目、ママレモンという名の台所用洗剤の匂いがする朝焼けと、自身の性別を、いまのところはいわゆる「男性」や「女性」等々へ分類されたくないという心情とが提示されている。「朝焼け」は他の歌の夕ぐれや夜との照応があるが、一首単位ではただきれいな景を付けただけと見えて弱い。性別を示さなければならないことへの違和感の表出を、「ママレモン」という女性が家事を担うことを前提にした言葉が支えている。〈擁(いだ)きあふときあなたから匂ひ立つ雌雄それぞれわたしのものだ〉という歌と併せて、個人へ一意的な性別のカテゴライズが行われることへの批判を示すのかとも思われるが、〈憂国の男子はひとり窓辺にて虹の戦旗に震へてゐるよ〉や〈デモ隊は最後尾からくづれゆく 還つてもいい?息子と息子に〉という、自らや相手を男性と規定する歌もあり、不整合が気になる。一人称単数形を〈わたし〉、一人称複数形を〈僕ら〉と使い分けていることも同様に、その意図が分からなかった。

 二首目について、一般的に想定されているような”偽の”差別ではなく、”ほんとう”に自分たちが受けている差別についての話をすれば、その”ほんとう”の差別の持つ重みによって白いシャツが湿っていく、ということだと解釈した。〈原罪と無縁の皮膚がしらじらと人魚のやうだ 異性愛者は〉、〈白いものなべて憎んで生きて来た僕らのためのゆふぐれが来る〉、〈・・・・・・無垢な日本で〉という歌から、白や無垢性は異性愛者のイメージとして提示されていると思われる。ここで白いシャツが湿ることは、”ほんとう”の差別について表明することが、マジョリティのナイーブさ(感受性が強いという意味ではなく、英語における何も知らないという意味での)をわずかにゆるがしうるという含意があるだろう。シャツの湿りは描写としての力を持たず、象徴的な照応関係の回収にのみ奉仕させられている。

 〈わたし〉とその相聞相手との関係が「友人」という名前しか持たないという苦しみが三首目のテーマとなっている。異性愛者である男女間のカップルには婚姻に代表される、公共・民間を問わないさまざまな制度が存在するが、同性のカップルはこれらの制度上、「友人」として疎外されている。異性愛者がマジョリティである社会における同性愛者の苦悩として典型的なエピソードだが、筆者がこの作品を否定的に捉えるのは、それが典型的なエピソードであるためではない。「婚姻」というものに比してどうしても弱くなってしまう「友人」関係に対して、「かげろふのようにゆらりと飛びそうな」という比喩はつきすぎている。また、照応のさせ方だけでなく、かげろうがゆらりと飛ぶ、という句自体も作りが甘いのではないか。

 表題歌となっている四首目。マジョリティが無知・無意識のうちに内面化した前提や、それによって形作られた規範によって差別が生まれているという社会の現状があり、それを思わせる「無垢」という形容がある。マジョリティの人間が、マイノリティ側に直面させている問題に気がついていないという含みもあり、多くを喚起する力のあるフレーズだ。

 ただ、筆者は四首目の歌意が十分にとれていない。「どれほどの量の酸素に包まれて眠るふたりか」、という問いは、気体である酸素について、「量」や「包まれる」という語が最適なのだろうか?とまず引っかかる。ちなみに、空気の八割弱は窒素であり酸素は二割ほど。濃度としてもあまり包まれる感じはしない。どれほどの酸素の濃さの中でふたり(=〈僕ら〉)は眠るのだろうか、という問いであるとして考えた。純粋な疑問だと読むよりも、反語として、〈僕ら〉の眠るまわりでは酸素は少ない、と解釈するほうがまだ確かそうだ。無垢な日本という国においてねむる同性愛者である〈僕ら〉は息苦しい、という大筋だと解釈すれば、かろうじてするのなら、「ねむる」という語からどういう状況を示したいのか、息苦しいという心情を記号的に酸素が少ないと言い換えただけなのか、等々の疑問が残る。

 「無垢な日本で」を読んでいくと、連作の主軸となっている同性愛・異性愛という対比の周囲に、いくつもの対立軸の構造があることが分かる。しかし、個々の歌については、修辞が弱く、言葉がモチーフの提示や象徴的記号関係の答え合わせにしかなっていない。構造的な対比をするその手つきのほうが先だって目に付いた。提示されている同性愛、地方と東京、家族などについて、読者はすでに持っていた通念を利用して、なんとなく個々の歌の粗さを補う読みをすることはできる。そのような読者の持つステレオタイプに寄りかかりすぎた読みは、読者の価値観を何ら更新するものではない。

 作品を読みすすめながら、しだいにその作者の文体のリズムや価値観を掴んでいくという経験は、誰しもあるものだと思う。ステレオタイプな人物像を想定することの問題は、読者があらかじめ持っていた既成の人間像を補助線として利用して、作品の細部を削いでしまうということにある(注:この一文は、十七年夏に行われた川野芽生による勉強会発表に多くを依っている)。小佐野の連作と、それに行われた読みが、多様性に対して何かを果たしたとすれば、「(異性愛の)男性」と「(異性愛の)女性」というステレオタイプがあったところに、新たに「同性愛者の男性」というステレオタイプを追加した、という程度のことなのではないか。既成の人間像によって、作品自体への真摯な読みが阻まれ、個人の多様な生のあり方が想定もされないという構造自体はなにも変わっていない。「無垢な日本で」は、その作りの粗さのために読者がすでに持っている通念に寄りかかりすぎてしまったという問題があるが、これはそもそも、そのような読みをよしとする批評における問題でもある。連作としての構成意識は優れていても、本作品が同性愛をテーマとして押し出している、ということだけを理由にして「根源的な人間の痛みを描出する(短歌研究選考批評会タイトル)」、「つい見落としがちな多様性を、強く思い出させた(野口)」、「社会的な批評性を備えている(渡辺)」などと批評することに、筆者はつよく反対するものである。

 本稿で筆者は、個々の歌の読みから出発したが、『Quaijiu vol.2』の座談会(注:「怪獣歌会」により、十一月二十三日の東京文学フリマで発行される。座談会参加者は鳥居萌、川野芽生、山城周、斉藤志歩)では、同性愛や差別というテーマの扱い方に注目した議論が行われている。未読の方が多いと思うので、すこし脇にそれるがいくつかの発言を紹介しておきたい。

 

差別なり少数者なりについて語る時っていうのは、規範に対しての意識っていうのがあるわけじゃないですか。なんかそれがこの連作ではかなり曖昧だなと思っていて。自らはどういう意識でいるのかーーそれはつまり家族制度に批判的なのかどうなのか、とか、同性愛は悪いものだと思っているのかとか、それがかなり読み解けないようになっている(中略)それに対する答えがこの連作では「同性愛者です」くらいしかない。(山城周)

 

同性愛者というマイノリティをテーマにしていながら、異性愛だけを当たり前としてそれ以外を排除する異性愛中心社会であったり、同性愛差別であったりに対する批判的な目線がほとんど見られない。(川野芽生)

 

読後感がさわやかっていうのはそれは読者のじぶんが否定されないからでしょ。自分は何なんだっていうことを突きつけられずに、「いいな、自分もそこに入りたいな」くらいの感じで自分が暮らしている市民社会ヘテロノノーマティブな社会を肯定してもらえてるわけでしょ。(川野芽生)

 

 渡辺の時評へと戻ろう。結びでは、「今自分にとって大切なものをまっすぐに見つめ、短歌の形式と韻律の力を信じて詠う姿勢」が重要である、と述べられている。これについてはそうだろうとしか言うことはない。しかし、他者の作歌姿勢というものをじかに知る手段がない以上、見ることができるのはそれぞれの作品(とせいぜい散文)のみだ。よほど深く緻密な作品への洞察に基づかない限り、作歌姿勢についての議論は、個人の信念の押しつけか、一般化された言葉が上滑りするほかにない。批評において作歌姿勢を話題に載せることにどれほどの意味があるだろうか。