現代の対話のために

初出:『八雁』2018年5月 通巻39号

 
 渡辺が作品を批評する姿勢は、いわば自文化中心主義的なものであり、そのような姿勢で書かれたものをわたしは到底信頼することができない。と、述べてみたとしよう。これは、書かれたものへの印象を、一足飛びに作者の姿勢の問題へとスライドさせた態度論である。
 筆者は前稿を、「よほど深く緻密な作品への洞察に基づかない限り、作歌姿勢についての議論は、個人の信念の押しつけか、一般化された言葉が上滑りするほかにない。批評において作歌姿勢を話題に載せることにどれほどの意味があるだろうか」と結んだ。しかし渡辺の応答を見る限り、前稿の説明は不十分であったようだ。本稿では補足が必要だと思った点について、彼の三つの章立てに合わせて補足する。

 

一、


 渡辺は、自らが過去に引用した谷川電話の〈国かいのナマちゅう継がぐにゃぐにゃでこわいあいしていんふるえんざ〉、〈清宮くんの打球が全然落ちてこない ぼくには帰るラブホテルがない〉、〈とりあえず便器に座ってぼくらしいうんちの仕方から考える〉という作品や、吉岡の〈きみがきみの塔婆のように立っていて言葉ときもちしかつうじない〉の表現、〈言葉と・きもち/しか・つうじない〉という句跨がりを批判したのちに、次のように述べている。

谷川や吉岡には短歌の形式と真正面から取り組み、五七五七七の韻律を大切にして詠おうとする姿勢が感じられない。
 さらに表現の幼さも気になる。(中略)作品に舌足らずな言い回しが目立ち、作者自身の人生に裏打ちされた具体的な手触りがない。(中略)私が「新しい表現を生み出すことに気を奪われ、自分が本当は何を詠いたいのか、あるいは何を詠わなければならないのか認識していない向きもあるようだ」と書いたのはその点を指摘したのである。

 

 谷川電話の連作「人間ですよ!」については、「言葉が上滑りしている」と渡辺が述べたのと近い意見だったため、前稿では特に触れていなかった。渡辺が「舌足らず」と呼んだ文体は、意図された軽薄さと品のなさからくる欠落感の表現だと読んだ。しかしこの点においては、すでに穂村弘の行った〈サバンナの象のうんこよ聞いてくれだるいせつないこわいさみしい〉のような仕事の範疇から出ていないように思う(吉岡の連作については「舌足らず」なのではなく、景を客観化しすぎないように制限された文体だと感じた。また、「作者自身の人生に裏打ちされた具体的な手触り」がないことと、「表現の幼さ」や「何を詠わなければならないのか」についての認識とを関連付けようとするのは飛躍が大きすぎるだろう)。
 右の吉岡の句跨がりのように下の句が四・五・五といった三部分に分割しうる韻律のパターンを、筆者は、定型である七音を下敷きにした二拍三連符のような感覚で捉えている。楽曲中の二拍三連符同様に、やや強調的で快感のある、しかし多用されるとしつこくなる韻律パターンだと感じる。言うまでもないことだが、句割れ、句跨がりを含めた破調というものは定型と表裏一体の修辞である。破調があるので悪い歌/良い歌といった単純な因果関係がありえないのは、「破調」を「比喩」なり「倒置」なりと置き換えて考えてみれば明白だろう。特に、助動詞や助詞を欠き単調になりがちな口語文体においては、定型や韻律へ対峙することが、そのまま完全な五七五七七であるとは限らない。


 とはいえ、いまは個々の作品の評価について論じたいのではない。個々の作品について、述べうる限りの批評は前稿で述べており(「語彙」という語の用い方は不注意でした。ご指摘感謝いたします)、正直筆者は渡辺がどのような作品を苦手としどのような作品を好むのかそれ自体にはさほど関心がない。作品の評価が、人によっても時期によっても異なるのは当たり前のことだ。本稿で論点にしたいのは、自身が評価していない作品を、渡辺が作者の態度論によって批判していることである。これは三へつながる問題なので一旦置いて、先に小佐野の作品に再度触れておく。

 

二、


 渡辺は小佐野の連作について、「同性愛者というマイノリティーの一人として生きる作者が、その思いを独自のイメージに託して詠ったすぐれた作品」と述べている。しかし筆者は、「独自のイメージ」というものに該当しうるものが何なのか分からない(〈分からない〉とは、いくつか意味するところの候補を予想したものの、どれ一つとして賞賛に値しうるものではないため納得できない、という意味で述べている。前稿でも表題歌にたいして「歌意が十分にとれない」と述べてしまったのはこの意味の〈分からなさ〉であった)。
 また、渡辺は例として〈ママレモン香る朝焼け性別は柑橘系としておく いまは〉の「ママレモン」という語を「社会的な批評性がある」とした。社会的に議論がなされるべき主題が扱われていることを「社会的な批評性がある」とするのなら、強いて「社会的な批評性がある」というラベル付けができるのかもしれない。しかし賞賛すべき批評性とは思わなかった。構図が見え透いていて、読者の想像や思考の範囲を出ないためだ(酷な要求かも知れないが、筆者は賞賛すべき批評性のある作品として、大辻隆弘がテロを扱った一連の作品や、斉藤斎藤『人の道、死ぬと町』、今橋愛「そして」『早稲田文学女性号』といった質のものを想定する)。


 前稿で筆者は、「本作品が同性愛をテーマとして押し出している、ということだけを理由にして、(中略)「社会的な批評性を備えている(渡辺)」などと批評することに、筆者は強く反対するものである」と述べた。渡辺の応答を読んでも、「独自のイメージ」や「社会的な批評性がある」という評価が〈分からない〉ため、主題や作者の属性から遡行して、作品全体の評価が下されているように見えてしまっている。同性愛者である人物が同性愛を主題にした作品を制作したことそれ自体に賞賛すべき批評性があるというならば、作品の表現や修辞に批評の目を向けないならば、散文でも何でもを読めば十分だろう。筆者は「短歌という詩の形式が持つ力を信じて」いる(渡辺の言葉を借りるなら、であるが)ため、主題や作者の属性が何であったとしても、作品の表現や修辞の粗に目を瞑ることはできない。


 筆者がこれほど小佐野作品の批評性(正確には、小佐野作品には批評性がある、と評価する議論のあり方)にこだわっているのは、修辞的な問題だけが理由ではない。歌の表現それ自体よりも、ステレオタイプ的な人間像を先に想定して答え合わせをするような作品批評があること、そしてその問題が十分に認識されていないと感じていることが理由である。新人賞の選考において「性別当てゲーム」(服部景典「歌人という男」『本郷短歌三号』)と言われたような、作者の属性にばかり目が向けられることが問題なのは、それが”正解”しない場合があるからではない。ステレオタイプから外れたものが”違う”、あるいは”失敗している”ものとして扱われること、既成の人間像を読み取ることが目的化し、表現の細部が捨象されてしまうことにある(これは、異性愛が当たり前である社会での同性愛者への眼差しと構造を同じくしているのではないか)。
 小佐野作品は、男性同性愛者というステレオタイプの作者像を提出し、このレールの上で評価されている。個々の作品の完成度に目が瞑られ、連作の主題的な側面が注目されたという点では成功した試みだともいえるだろう。しかし女性や若者などといったステレオタイプの選択肢の中に、新たに男性の同性愛者というステレオタイプが加えられたことが多様性であるかのように評価するのは筋違いである。作品を読むべき場で、既成の社会通念が、作品それ自体よりも力を持っているという構造は変わっていない。

 

三、


 前稿で「他者の作歌姿勢というものをじかに知る手段がない」と書いたが、そこから誤解を生んでしまったようだ。渡辺が「一冊の歌集ならばもちろんのこと、たとえ数首から成る一連であってもそれなりに、作者の歌に対する姿勢は読み取れるはず」と述べたことには部分的に同意する。筆者も作品から作者の姿勢を感じることはある。
 例えば、前稿で取り上げた谷川由里子の作品や姿勢を、筆者は「本気」のものだと感じている。親しい仲の会話であれば、谷川由里子の歌は世界や短歌に対する本気さがびしびしと伝わってくるところが魅力的であり信頼できる、といったことを言うかもしれない。しかしこれは、すばらしいからすばらしい、と述べているようなもので、信頼関係の中でしか受け渡しできない言葉だ。もし前稿で右のように谷川の作品について述べても、それは価値観の異なる他者に何かを伝えうるものではなかっただろう。


 今の自分が評価できない作品だとしても、のちに読み落としていた何かに気がつくかもしれない。あるいは、そこで拓かれようとしている歌が、自分の持つ短歌観とまったく異なっているために、それを理解できていないだけなのかもしれない。初めて谷川由里子の作品を目にしてから、その魅力のありどころが実感できるようになるまでに、筆者は一、二年ほどかかっている。作品を評価できなかったことの説明に、作者の作歌姿勢の不誠実さを持ち出す発想は、自らの読みや価値観を絶対的に正しいものとし、それが他者にも共有されていることを前提にしたものだ。作歌姿勢についての議論は、常にこのような自文化中心主義をはらんでいる。そして、自らの読みや価値観が絶対ではないかもしれない、と筆者が考えるのは、現在の自分が分かる範囲の外にもすばらしい作品群が存在することを信じているためである。


 今のところ、筆者は特集での谷川電話の連作や小佐野の新人賞受賞作を評価しないが、それを理由に彼らの作歌姿勢が不誠実だと述べようとは思わない(そもそも彼らが不誠実だとも思わない)。評者によって作品の鑑賞が違いうるように、作者の姿勢というものも、自明には共有されない事柄だ。これほど筆者と渡辺の間で作品への見解が異なっているのに、作品から読み取った「作者の歌に対する姿勢」が一致している見込みは薄いだろう。態度論によって述べうることは、良いから良い/良くないから良くない、といった撞着的な論理でしかない。「よほど深く緻密な作品への洞察に基づかない限り、作歌姿勢の議論は、個人の信念の押し付けか、一般化された言葉が上滑りするほかにない」と述べたのはこのためである。作歌姿勢へと論を飛躍させる前に、批評は一つ一つの表現に即した読みや、評価軸の確認から始められるべきだ。ましてや、前々稿の渡辺の「最近の若手歌人の中には、新しい表現を生み出すことに気を奪われ(以下省略)」というような、乏しい根拠でもってある世代の作歌態度をひとくくりに批判する文章をどうして認めることができるだろうか。


 最近のご年配の歌人の中には、読みを蓄積できていない口語歌の見慣れなさに気を奪われて、作品鑑賞につまずいたことを、作者である若者の姿勢に問題があるためだ、と認識している向きもあるようだ――というのは例文であるが、この例文からも態度論や世代論へと言及をひろげることが対話を生み出さないことはご理解いただけるだろう。
 すでに「短歌の形式」といった大きな言葉や、態度論や世代論は力を持っていない。これらは、評者と短歌観や世界観を共有する範囲の人々にしか射程がないためである。批評という場で、価値観を同じくしていない他者と対話をしようとするならば、根拠や前提――作品の具体的表現に即した分析や、評者の評価軸のありどころ(もちろん態度論ではなく)――を丁寧に共有していくほかはないだろう。そして対話は、啓蒙的態度によっては開かれるものでないということも言い添えておく。